この世は想起される

「イデア」は形而上に遍在する
概念や雛形のようなものと言われます。

「イデア論」においては
多大な時間をかけて人間は
「イデア界」にあるものを
「現象界」に転写してきたのだといわれています。

そして「イデア」の概念自体、
知る、あるいは理解するという解釈はせず、
「想起(アムネーシア)」されるもの全てが
「イデア」あたります。

それゆえそもそも、この概念は
主観によるところが実に多いです。
それはあたかも、
時間が人の主観によって
伸びたり縮んだり感じるのと同じで、
「イデア論」による世界観も
人それぞれの主観、
アムネーシアによって
様々な性質になり得るものでもあるのでしょう。
そうした主観のエッセンスの総和が
「イデア界」であるのでしょう。

さて、ここで一つの問いがあります。

今、自分自身を取り巻く、
「現象界の対としてのイデア界、ないし
そのイデア界から転写されたであろう現象界」は、
晴れやかで、また祝福に満ちたものできょうか。

たいていの人は、
まあ、良い時もあれば、悪い時もあるけれど、
そう答えるものでしょう。
僕も同じように答えます。
「イデア論」においては、
人生の良いことも悪いことも、
元は「イデア界」にあったものが
自分の人生体験の中で転写されたものだと考えますから、
人生の良し悪し、あれこれも
「良いイデア」あるいは
「悪いイデア」に乗ってしまっている、
という考え方ができます。

ただ、良きにしろ悪しきにしろ、
そのイデアに乗ったのは誰なのか
というところを突き詰めるなら、
それに「自分が乗ったのか」あるいは
「乗れられたのか」
どちらなのか、という問題です。

結論を言ってしまえば、
「乗ったのは自分」でしょう。
乗せられたのかもしれませんが、
結局乗ったのは「自分」です。

ならば、未来や運命というものは
自分が決定しているのだろうと
導かれるのでしょうが、
イデアの及ぶところは、
おそらくもっと広いでしょう。

自分の意思で決めたと思い込んでいる、
それ自体がイデアによって導かれた
決定かもしれないという事。

あたかも、そのイデアに自らの意思で
乗ったかのように思えても、
実は何万年いや、宇宙開闢以来ずっと
今ここに自分で、このイデアを垣間見る
「現象」そのものが
すでにイデア界の中に存在し、
またこれからも存在し続けるのでしょう。

イデアの実像に肩を持つのなら、
この世界は決定論で成り立ってはいるのかもしれませんが、
イデアの先にアムネーシアがある以上、
イデアの宇宙観は閉じたものにはしてくれません。

しかし精神による
アムネーシアの発現は無限のものでもあります。

この決定論と非決定論を
背中合わせにした矛盾そのものが、
人の精神世界であり、
その精神から想起、つまり
アムネーシアされる現象界の
姿であるのかもしれません。

決定論的世界が
非決定論的に
無限のバリエーションで
形成されていく世界。

宇宙の本質というものは、
意外とアムネーシアされる
イデア界のイメージに近いのかもしれません。


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