一億総玉砕せよ!

学生の冬休みや夏休みの時期になると
いじめられていた生徒が
追い詰められて自殺をするという
話をよく聞きます。

痛ましい状況です。

僕個人的には、
身に危険を感じるようなら
全然、学校など行かなくてもいいし、
ともすれば
学校へ行かなくなってしまったことによって
起こる色々な人生の弊害に関しても、
全て「社会のせい」に棚上げしてしまい、
「社会を恨む人生」を生きるのも肯定します。

虐げられた人の存在を生む社会というのは、
やはり悪であるし、
虐げられた人を生んだ社会から
逆に悪と呼ばれようと、
虐げられた人にとっては
自分を追いやった社会への復讐を果たす
正当性を得ていると感じます。

虐げられた人の恨みは
虐げた既存の社会を倒すことによって
果たされます。

虐げられるものが生じる社会、
あるいは群衆というものは、
それ自体が正しくないのだから
無理にそんな社会に合わせてまで
生きながらえる必要はないのです。

例えば「いじめ」ですよね。

「いじめ」は死人が出なくとも、
いじめられた立場の人間は
完全に「その社会」からは抹殺されることを言います。

そう、いじめられた人間は
もう死んだのです。
殺されたのです。

どういうわけか、
息もしているし、物を食べたり
逆に排泄したりする、
そういう生物学的には
「生あるもの」として存在してはいますが、
「社会的」に見た時、
もう既に殺されているのです。

死んだ人間が幽霊となって
ひっそりと気づかれぬよう
存在し続けることもできますが、
そういう自分を生み出した
浮世という社会を恨み、
その悪の根源の所在を
明らかにするべく
「自ら死にゆくこと」は
もしかしたら賞賛すべき
勇気ある行動なのかもしれません。

愚鈍な大人が気づかなかった「いじめ」を
自らの死をもって
知らしめた勇気ある行動。

これから人口が減っていく社会。
若い命をなくすということは
社会的損失でもあることに
多くの大人が気づかなければならないでしょう。

集団の中ではびこる
「けだものの社会性」から
振るい落とされていく、
感受性の強い命がそこにあることに
気づかなければならないでしょう。

死にゆく若い子は、
自らの死をもって
「けだものの社会性」から
その力を奪っているのです。

それが彼らの復讐なのでしょう。