死さえも作品

先日も話題にした話ですが、
デヴィッド・ボウイ。

ここまで世界規模で話題になると、
あまりにポピュラリティに迎合しているみたいで
記事にするか迷ったのですが、
他に特別ネタもないので(笑)
書こうと思います。

ロックという音楽が生まれて
はや60年経ちます。
死んでいったロックミュージシャンの中でも
とりわけ伝説になった人でさえ
たくさんいます。

古くは、
プレスリーなどもそうですし、
ジョン・レノンの死も世界を揺るがしました。
麻薬中毒で死んだだけの
シド・ヴィシャスも
なぜかカリスマです。
90年代のガレージ、グランジ界隈に
影響を受けた人ならば、
カート・コバーンの名前もあげるでしょう。

上記に挙げた人物だけでは
全然足りないくらい、
死んだことが語り草になるミュージシャンは
たくさんいるのです。

けれど
自分の作品と自分の死を連動できる
ロックスターは
ロック60年の歴史にあって、
そうそういないと思います。

自分の作品と死を連動するということは、
この場合、単なる
アルバムの発表直後に死んでしまうという
意味の範疇にとどまらず、
「自分の死を見据えた作品」という
ある種特別な意味合いを持った作品を
成立させてしまう、
それこそ確率的に見ても
実に難しい「幕引き」なのです。

僕の知る限り、
これができたのは
先日のデヴィッド・ボウイと
フレディー・マーキュリーだけだと思います。

ロック史に限らず、
音楽史においてこれを
センセーショナルにやってのけた
著名な音楽家など
ほとんどいないのではないでしょうか。

けれど、音楽をやっている身からすれば、
最後の最後に、残りの力を
最後の作品に注いで
死んで行けるというのは、
音楽家として最高の死に方だと思います。

前述の
「自分の死を見据えた作品」を作るには、
ある程度、余命が分かっていないとできないわけで、
かつ、
自分の認識を「死の向こう側」にまで
拡張させなければ、
こういう作品は遺せないのだと思うのです。

「死」で終わると考えてしまうと、
本当に「ただ死を待つ人」で完結してしまいますが、
「死の向こう側に存在する自分」というものを
イメージできるならば、
自分の生の最後に、どういう作品を作ればいいのかが
おのずと分かってくるものなのだろうと思えます。

これが、
ただ死を待つ人の
「人生の最後の作品」と、
死の向こう側まで認識を拡張させた人の
「実存としての最後の作品」との
違いなのだと思います。

ただこれは、
自分がやろうと思ってできる芸当ではありません。
それこそロック、いや音楽に見初められた人が
音楽の神様に導かれて成し遂げられるものだと思います。

でなければ、
自分の死の覚悟する歌を唄い遺し、
それが世にでるのを見届けて
天寿を全うできようはずがないです。

そして、自分の死までも
表現の一部としてアウトプットし、
後世にも影響を与えられるだけの
天賦のものを持ち合わせた人にのみ
出来る奇跡の御業であるとしか言えません。

それほどに
「置き土産」を置いて
この世を去ることは
奇跡的なタイミングの合致がないと
無理な話なのです。

下のミュージックビデオとかは
多分、本当に最後の最後の映像だと思うのです。
死を超越したところに認識の点を置いて
もっとも素晴らしく表現者であることを
貫くことができた恒例なのではないでしょうか。

ちなみに、
フレディー・マーキュリー(Queen)はこんな感じ。

まだ、死と作品の関わり合いという点において
洗練されていない部分を感じますが、
こういう「遺し方」があっての
デビッド・ボウイなのではないでしょうか。

ロックの楽聖の共演。

僕がことあるごとに
ロックが死んでいくと言っている
意味がわかるでしょうか??(笑)