ストーカーのそれが愛ではない理由

昨日の話をもう少し
展開させていきたいと思います。

昨日書いたこととして、
人を「本当の意味で」愛する時、
同時にその人から愛されてもいる。
それを信じ続けてさえいれば。
そう述べました。

しかし、この理屈には
大きな落とし穴があるのです。

上述の理に関して、
正しく実践するには、
愛について非常に深いレベルでの
理解と気づき、そして受容や寛容が
必須のものとして問われるのです。

考えてみるなら例えば、
自分はあの人の事が好きだ。
自分が好きでいるのだから
相手も自分のことを好きに違いない。

この理屈は必ずしも通るものではない事は
当然のこととして分かると思います。
ストーカーの真理状態に限りなく近接する
危険な理屈でもあるからです。

ここに「愛すること」と「愛されること」の
関係性の難しさや微妙さがあります。

人は愛する時、同時に愛されると言いながら、
けれどそれは
身勝手な妄想だとも言う。

実はこの矛盾に整合性を与えるところに
この論理の本質があるのではないかと思うのです。

愛する人が自分を愛してはくれないと
言明された時、
あるいはその愛がただただ
叶わぬものであったと悟った時、
その原因はどこにあったのでしょう。

おそらくその原因は元は
自分自身なのでしょう。

「自分が正しく人を愛していなかったから」
その一言に尽きると思います。

自分が正しく愛さなければ、
正しく愛されるはずはないし、
叶わぬ愛だというのなら
それは間違えた愛し方を
相手に対しても、自分対しても
しているからなのではないでしょうか。

愛が叶わないのは、
自分がその「愛の場」において
間違った出力を
外的世界に表現しているからなのではないでしょうか。

前述でストーカーという言葉が出てきましたが、
これも前述の通り
正しい愛し方ができていないから
愛は叶わず、執着し、
時には間違った行動さえ取ってしまうのでしょう。

しかしもっと踏み込んで言ってしまえば、
実は付きまとわれる側の相手もまた
間違えた「愛の振る舞い」をしている可能性は
大いにあると思います。

間違えた愛の表現をしているから、
間違えた愛され方をするのではないでしょうか。

ストーカーという行為は、
付きまとう方が一方的に悪いという
通念が当たり前となっていますが、
両者二人で「一つの愛の場」という捉え方をすると
あながち、付きまとわれる側の人も
その「間違えた愛の場」の当事者に
過ぎないものなのでしょう。

付きまとわれれば、甚だ迷惑ですし、
女性であれば身の危険すら感じる恐怖でしょう。

しかし、付きまとわれる原因の片棒を
自分が握っていることは
事実なのだと思います。

正しく愛する力のある人は
愛に対して
疑わないし、裏切らないし、
嘘もつかない。

故にその関係は
大きな実りを永続的にもたらすのです。

人はそういう
正しい愛し方をできているのでしょうか。

愛というものは決して
『自分一人では成立しない』のです。
そのうえで、その愛情を伴う「場」を
俯瞰してみれば、
愛情とその結果、そのいかなるものもが
実は自分が作り出していたことに
気付くのでしょう。

そう、
付きまとうにも、
そして
付きまとわれるにしろ
相手がいなければ成立しないのです。

そこ、それは
「愛」ですか?

愛を実践できる人でありたいです。