ちょんまげとガラケー

以前、ここの記事で
日本がガラパゴス化すると
アメリカが風穴を開けにくる
という話をしたことがあります。

それは大昔、
鎖国していた日本を開国させ、
日本独自の封建制度を淘汰したところから始まり、
軍国主義で日本がにっちもさっちもいかなくなって
太平洋戦争に負け、
近代の民主主義と資本主義へ
改まったこともそうでしょう。

日本にとってアメリカとは
そういう役回りを持っているのだという話でした。

冒頭にガラパゴス化という
キーワードが出てきました。

ガラパゴスと言って連想するのは
もちろん、ガラケーでしょう。
もう今となっては昔の携帯電話です。

そして今はスマホの時代です。

別に誰かがスマホの使用を
強いたわけではありませんよね。

みんな、以前のガラケーの操作法や
扱い方に慣れてしまった人は、
「使いにくい〜!」と愚痴を言いながらも
周りが使っているし、
そもそも、新しく携帯電話を買い換えるにしろ
スマホしか置いていない状況だったりと、
そういう事情もあって、
結局、日本のほとんどの人が
日本独自のガラケーを捨てたのです。

誰に言われるでもなく自分の判断で。

さて、ここでもう一度冒頭の話に戻りますが、
日本を鎖国から開国に向かわせ、
武士の社会が終わり、
「文明開化」と言って
「ちょんまげ(男性の場合)」を
自分から進んでやめてしまいましたよね。

あくまで僕の想像ですが、
きっと日本から「ちょんまげ」が
消えた状況というのは、
現代のガラケーがみるみる駆逐されていく
様相と似ていたのではないかと思えます。

今はまだ、高齢の世代を中心に
ガラケーじゃないと使えないという人が存在するので
一定の需要があるでしょうが、
おそらく、やがていつかは
ガラケーは
部品調達自体が不可能となって
生産されなくなるのだと思われます。

悪法などによって
民意に沿わないまま
半ば強制されたような習慣などは
やがて廃れますが、
民意で選んだことは
そのまま文化になります。

現代の日本人が
「ちょんまげ」を結わず
スマホをいじっている光景は
文化として維持されるでしょう。

けれどまた、ガラパゴス化し始めると
アメリカが風穴を開けにくるのです。

しかし思うのは、
何でもかんでも
グローバル化せざるをえなくなるのが真理
というわけでもないように思えます。

日本由来でせっかくの良いものがあるのなら、
それがたとえガラパゴスの領域にあるものでも
変える必要はないと思えます。

その変えるべきではないものこそ、
日本のよき文化なのだと思います。

そもそも、グローバルスタンダードは
絶対的に正しい事例とは限らないのです。
グローバリゼーションに
なりふり構わず白旗を上げようとすると、
グローバルスタンダード自体が
ガラパゴス化して
世の中がややこしくなる気がします。

世界全体がガラパゴス化した時、
日本でいうアメリカのような存在を
いったい誰が担うのでしょう。

そうなったらもう、
天災か宇宙人にでも
風穴を開けてもらわないと
地球という島国の中で
全員とも倒れとなってしまうかもしれません。