魂はあるのか

ものすごく根本的なことなのですが、
人には魂というものがあるのか、という問い。

唯物論者は、
人間という生物は、他の動物と同様に
有機的な構造を持つ臓器によって
その肉体を維持しているのだし、
人の精神活動も
それ(特に脳)が極端に発達したが故に
起こる現象で、
臓器が機能を停止、つまり死んでしまえ場
精神はまったく無に帰すだろうと言います。
まるでパソコンの電源を切ったかのように
人は死ぬのだと。

例えば、ある音楽を人が聴いた時、
その音楽に対する反応は
人によって千差万別ですが、
これは何故なのでしょう。

おそらくこれは、
脳の中の記憶や、脳の神経のつながりが
外的環境によって後天的に形成されたことによる
個人差、つまり「脳の個体差」と言ってしまえば
それまでなのでしょう。

後天的な経験が
一つの同じ音楽に対して沸き起こる
様々な反応を引き出しているのは
正しいと思います。

この場合の主体であるところが
人間の精神活動の中心であろう
脳であるなら、
ここでいう音楽は客体となるでしょう。

客体は主体の経験則から
様々な反応を引き出すと言いますが、
何故それが引き出されるのでしょうか。

過去の体験と感情が結びついて
記憶を形成するのですが、
およそ、その記憶とは関係のない
客体であるところの音楽を聴いて
何故その記憶が引き出されるのか。

しかも、一つの同一の客体である音楽、
つまり、鼓膜を通して脳へと伝わる
「音波」は同じであるのに、
主体は千差万別の反応をするのです。

反応の差異はここでは問題ではないでしょう。

そうではなく、まごうことなく
『反応してしまうそれ』の正体は
なんなのでしょう。

要するに「音波」を感じているわけですから、
その「反応してしまうそれ」とは
「音の体感」なのかもしれません。

けれどその体感が
記憶を呼び起こし、
新しい体験という記憶を形成することも事実であり、
この「体験」を認識している主体はなんなのか。

人は自分自身が存在する限り
主体であり続けます。
故に主体と自分は同一のものなのでしょう。

死して無に帰すということは、
主体も客体もなくなるということです。

主体であるところの自分が
無に帰すということは、
その目に見える世界全てが消えるということです。

しかし、自分が死んだところで
世界は消えはしません。
この世に残された人、つまり
客体の中で自分は存在し続けます。

客体としての自分がこの世界にある以上、
主体である自分は
たとえ生物として死んだとしても
どこかに在り続けなければならないのです。

客体である残された人の記憶の中に存在する自分は
すでに死者であるということは、
主体である自分もまた死者として認識されるはずです。

突き詰めれば、
肉体は死んでも自分はまだ存在し続けると考える方が
実は矛盾がないのです。

それでも誰かが死んで、
「その人だけ」の世界が無くなったというのなら、
世界は人の数だけ存在しなければなりません。

けれど人は同じ客観的世界を共有しています。

主観であるにしろ、客観であるにしろ、
その世界を認識している
この事象はなんなのか。

冒頭の唯物論者のように
死ねば電気製品のスイッチを切ったように
無になるというような簡単なものではないのでしょう。

自分が肉体的に死んでも、
自分の記憶を持った残された人が
自分を精神的には死なせてくれない、
つまり無に帰させてはくれないのです。

故に、
人はおそらく死しても
自分という認識可能な主体は
存在するのだろうと思います。

その主体を人は
魂と呼ぶのなら、
魂というものは存在するし、
人の本質は
主体たるところの
魂にあると言えるのでしょう。