愛すること、信じること

人を愛するということは、
何はなくともその基底に
「信じること」が無いと
愛そのものが積み上がっていかないのだと思います。

恋愛にまつわる苦しみ。
例えば、嫉妬や執着、疑念などか
その最たるものだと思うのですが、
結局これらのネガティブな想いが湧き出る
根源は何かと追求していけば、
そこにあるのは
「相手への(相手への愛に対しての)不信」
以外の何物でもないような気がします。

もちろん、これは恋愛に限ったことでもないのでしょう。

人生の苦悩のほぼ全ては、
「信じられないこと」に起因する事柄と、
それによって帰結した二次的な結果で
占められているのでしょう。

こうした真理を踏まえつつ
今一度、恋愛に関して言うならば、
「純然な意味においては」
愛した人からは
必ず愛されるのだと思います。

何故なら、
「純然な意味での愛の衝動」自体が
そういう「場」であり「体験」であるのだから。
さらに言うなら、
「愛し、愛されているその状態」のことを
「愛」というのであり、
それが本質なのです。

「愛」という体験において、
それらは「愛する立場」と「愛される立場」が
相対的に絡み合って形成されるのが
本来の愛の姿なのであり、
愛する時は同時に愛されているのが
愛の姿の本質なのです。

故に
湧き出るその愛について、
それが真実だと信じるに足るのであれば、
いちいち疑い、悲観する必要はないのです。

己の愛について疑い、打ちひしがれている時、
その時は恐らく
自分の愛が試されているのでしょう。

もしかしたら試す人とは
その「愛する相手その人」かもしれない。

その人は何度も問います。

「どれだけ信じてくれるの?」と。