繋がりたくない人たち

少なくとも日本では、
「引きこもっている人」というのは
相当な数、ともすれば
大多数いるように思えます。

一般的な定義としては
長期間、社会的な繋がりが
断絶した状態にある人のことを
言うそうですが、
こういう目に見えて
引きこもってしまっている人など
氷山の一角であろうと思うのです。

もっと内在的な部分までアプローチすれば、
たとえ外へ出て、仕事を持ち、
一般的に普通の社会生活を送っていたとしても、
人との関わり合いを
心理的に拒絶してしまっている人は、
その人はもう引きこもりだと思うのです。

簡単に言えば、
長期間、潜在的にでも
人と関わり合いを持ちたくないと考える人は
すべからくして、
皆、引きこもりの状態なのです。

以前も話しをしましたが、
僕は引きこもる状態というものは
むしろ肯定的に捉えています。

『相対的な評価を絶対的価値に置き換える』
そういう外的世界を生きている以上、
ひとたびでも引きこもらなければ
自分の内面の本質など見えはしないし、
その内面を把握できない人間が
普通の社会生活を送るということは、
良きにつけ悪しきにつけ
相対的な評価を絶対的な価値とする
「かりそめの本質を掌握している誰か」に
従って生きる必要性があるということであり、
それはすなわち
集団の強者の隷属であることを是とする社会を
形成してしまう危うさを持っているのです。

ゆえに己を知るために
独り篭って内観する人生体験は
数ある一つの措置として
必要なものであるのでしょうが、
それを社会が
病的な悪として捉えてしまうことは、
引きこもる人を
より逼塞した状況へと
追い込んでしまうように思えるのです。

この人間の集団社会では
己を知ることは不要なことであり、
時には社会機能を阻害する行為でもあるのです。

もちろん、重ねて言いますが、
ここでいう引きこもる人というのは、
「社会的概念としての引きこもり」だけ
ではありません。

『人と関わり合うことを嫌う人たち全般』
こそを引きこもりとして言っています。

なぜ人と関わりたくなくなるのか。
人と関わることになぜストレスを感じるのか。

誰もが本音と建前を使い分ける、
その最小公倍数的な集団を社会と呼び、
そこで等しく従って生きなければ
人として認められないし、
認められ、社会や集団の一員として生きるには
一定の嘘や悪までもが是認されてしまう、
あるいは、誰かのエゴイスティックな都合によって
自分が犠牲になることさえも推奨されてしまう、
そこが許せないのだろうし、
またそれを強要されることで
自分が自分ではなくなっていくことに
恐怖をおぼえるということもあるのでしょう。

わかりやすく言うなら、
現代の社会には
「自分の本質を奪う力」
というものが働いていて、
奪われたくないなら
人との関わりを断絶せざるをえないのだということ。

誰が「自分の本質」を奪うのか。

それは
「人から本質を奪って自己を肥やしていく人たち」です。

人との関わりを嫌う人は、
そういう人たちの存在を本能的に知っています。
土足で自分の領域に入り込んできて
勝手に自分を書き換えてしまおうとする人たちに
脅威を感じているのです。

そこから逃走する道すがらに
孤独を味わうことで
自分の本質を悟っていく
プロセスがあるのです。
そのプロセスは
最終的には自分一人でないと
完結できないのです。

今、そういう人たちが増えているのは、
自分の本質を奪われる脅威に瀕している人が
増えているからなのでしょう。

わかりにくい考え方ですが、
広義において引きこもる人というのは
「奪われた人」なのです。
そしてそこには
相対的に
「奪った人」が存在しているのです。

のうのうと無遠慮に
社会的な立場を甘受する人たちが、
あるいはそういう人たちの
心無い言葉や振る舞いが、
引きこもる人から心のつながりを
断ち切らせているのです。