水に流す

これは一般的にどうとかいうより
個人的な話のような気もしますが、
何かとギスギスした世の中だからこそ、
僕自身、世の中について
もっと寛容でありたいと思うし、
逆に今の僕はきっと
世の中や、もっと大きい意味での
自分の外的世界というものに対して、
まだ寛容さが足らないのだとも自覚しています。

それでも僕の外側の世界では、
許せない出来事、と言っても
プライベートではそほど大した不満は無いのですが、
テレビやネットをみると
人のネガティブな言動や、
そもそも人として不徳と言えるような事を
平気で出来たり、言えたりする人が多すぎて、
そういう世界に関しては
本当に辟易するばかりです。
まあ、直接自分に関わることではないのが
幸いな話ではあるのですが、
こう言っている僕の文章自体が
そもそも結局ネガティブなのだろうな
という気もします。

ただ僕をはじめとして、
誰しもが
やはり毒付くだけではいけない。

けれど実際の世の中には、
寛容さを慎みと美徳で実践できる人と、
人の寛容さを言い訳にして
人の事を顧みず平気で傍若無人に振る舞う人がいます。

人としての不徳までも
寛容に赦すことができるかと言えば
まだ僕には無理ですが、
悪徳さえも赦すことが出来る事こそ、
究極の美徳であるような気がします。

なぜなら、
それを心から実践できる人は
おそらく、人としての真理を知っている人であろうから。

つまりその人とは、
悪徳や不徳というものは
それが悪徳や不徳であると認識、
または判断することが出来る
自分の心の中にこそ存在するのだということを
知っている人ということ。

見たり聞いたりするだけで
はらわたの煮え返るような世の中の出来事は、
まず、自分が赦し、
理解することでしか
いちばん最初の闇は
取り除くことはできないのではないかと思うのです。

美しい世界に生きたいと考えるなら、
まず自分が美しい人でなければいけないのは当然です。
美しくないものを抱え、
延々とそれを排除しようと躍起になっている
自分の心は、まず間違っても
美しくはありません。

きっと、世界が変わらないというのなら、
それは自分の世の中の見方が
変わっていないだけなのだと思います。

世界で起こる事は流動的で、
常に顕れては消えていくものなのです。
一か月前に起きた出来事でさえ、
記憶は薄らいでいってしまうものです。
それは、美しいものであっても
醜いものであってもです。

消えていかないのは、
それが今、もうここにはないというのに
自分の中から消え去っていかないのは、
自分がそれに囚われているから。

世界が流れていく様こそ、
本当に美しい光景なのではないかと思うのです。

その美しさが理解できた時、
世の中の醜さまでもが
愛おしくなってくるのかもしれません。