社会への適応が自立を阻む

昨日と繋がる話として、
社会と隔絶してしまっている人についてですが、
これには2種類あると思われます。

一つは、完全にアウトローな人。
反社会的なメンタリティを気質的に持ち合わせている人。
そしてもう一つが
期せずして社会という集団からあぶれてしまった人。
引きこもる人の、その原因として
いじめや、就職や受験の失敗が挙げられますが、
こうしたことがきっかけで
集団からあぶれた人たちです。

後者に関しては、
それを産み出したのは
完全に社会いう集団だと言って良いと思います。

集団というものは、
その中で同質と感じ難い存在を
嫌う傾向があります。
そしてそれが何かしらネガティヴな偏り方をし、
さらに弱者の立場であるのなら、
確実にそういう人を
集団から排斥しようとします。

こういう状況で集団からあぶれる人は
意外と多いと思うのです。

社会という集団は、こうした彼らを
異物としてその枠から排除し、
孤立させておきながらも
それでもなお社会へ戻ってこいという。

けれど大抵は、集団に戻ったとしても
また不適格者として排斥されるのでしょう。

追い出しておきながら、戻ってこいというのは、
平均的な集団のエゴであるし、
望まないのであれば
戻ってこいという呼びかけに
応じる必要もないのだと思います。

特に社会的にも
引きこもりになってまった人などは
「自立できていない」
というレッテルを貼られがちですが、
これは半分しか正確ではありません。

確かに、社会へ出て仕事をしなければ
自立は出来ません。
けれどよくよく考えてみれば
社会の一員となるということは、
自分という個性をかなぐり捨てて
社会に依存することなのです。

いわば、社会に屈するということなのだと思います。

『社会的に自立するということは、
ひとりの尊厳を持った人間としての自立を阻む』
場合もあるのです。

社会を生きるということは、
自分の力を集団に売り渡すことなのです。

自分の力をスポイルすることで
社会という器に乗って生きているのだから、
そこを差し引いたうえでも、
社会のニーズに合わない個性にとって
そこは到底、生きられる世界ではないのは
考えてみれば至極当然なのかもしれません。

社会という集団は、
大勢の人間が作り出した幻想なのです。
ここは、勝ち取らなければ人とみなされない世界。
誰かから奪うことによって
自分を生かす世界。

そして、その本質を
絆や支え合いという美談にすり替えて
さも、それが人として当然のことであるような
そういう欺瞞の空気で満たしているのが、
この世界の実像なのではないかと思えるのです。