恋をしよう

恋などというものは
恥ずかしい失敗の連続です。
勢いに飲まれて
過ちを犯すのが恋。
あとあと
恋をしていた自分を思い返して、
そのあまりのグロテスクさに
悶々とのたうち回る。
それが恋。
ただ、
のたうち回っているうちは
まだきっと
その恋は癒えていないのでしょう。
破れた恋が
本当に癒えたなら、
そんなグロテスクな自分すら
鼻で笑って許せるようになるものです。
形だけの
上辺だけで恋をするなら
話は別かもしれませんが、
現実、
本当の心から湧き出る恋心を抱いた
恋というものは、
間違いなく
不格好であり、
気持ち悪い自分がいて、
それを人生の汚点のように
つい思ってしまうもの。
そんな事ない
などとあっさり言える人間の恋など
信用しない方が良いでしょう。
そんな人は
本当の恋を知らないだろうから。
恋というものは
毎度毎度、
出会って
ときめいて、
その人の事が気になりはじめ、
その想いがどんどん募っていき、
やがて
胸が締め付けられて
食事も喉を通らなくなり、
切なさと寂しさから
夜も眠れず苦しくなって、
それほど想っているのに
それなのに
いつかは別れがやってきて、
去り行く人の幸せを想えばこそ
その別れを受け入れなければならなくて、
しかしそれでも
これほどまでに煮え切らない
自分のあまりの気持ち悪さに
この世から存在を消してまいたくなるほど
恥ずかしくなって傷つくから、
もう忘れなきゃ、でも諦めきれない、
その両極を振り子のように
行ったり来たりしつつ、
徐々にそれが
想い出に変わって
笑える日が来る。
そして最後に
恋の振り子は止まって
その恋が終る。
ここまでをひっくるめて
恋、1セットなのですよね。
これらの事すべてを含めて
ひとつの「恋のプロセス」
なのです。
一度立ち入ったなら
絶対逃げ出す事はできないし、
逃げ出そうとしてはいけない。
甘い事も、苦い事も含めて
正面から向き合わなければならない。
ドラマティックに出逢って、
映画のような恋に落ち、
ロマンティックな恋を謳歌する。
そんな恋などありません。
もしそんな恋をしているというのなら
それは恋というシチュエーションに
恋をしているだけで、
実際は本当に人を
愛しているわけではない。
出逢ってちょっと気に入ったから
付き合いはじめて、
何回かセックスをして
飽きたらサヨナラ。
まあ10代の若者なら
それもまた
ひとつの人生経験と
なるのかも知れませんが、
少なくとも
いい大人がこれをやっていては
情けない。
心同士を、魂同士を通わせる
本当の恋をしなければ。
ただ、
人に恋をするという事は
膨大なエネルギーを使います。
だから、
それだけのエネルギーを
恋に割り振れる余裕のある人にしか
本当の恋は訪れません。
恋にエネルギーを使い切る
覚悟を持って人を愛したのなら、
自分の持つすべての力を使って
愛を表現するべきなのです。
振り返って
「あの時、こう言えたなら」
などと後悔しないためにも。
もちろん後悔は
次に繋がる学びをもたらしますが、
「恋のプロセス」の途上にある期間は
後悔しないために
自分における真実の愛の形を
余す事無く、
全力で表現しきる事を
心がけなければいけないのでしょう。
好きな人ができて、
その人のために
やれる事すべてやり尽したとしても、
その恋は
叶う事もあれば、
叶わない事もある。
でも叶うと信じられるからこそ、
自分の愛情を
極限まで純粋に研ぎ澄ませる。
それほど丁寧に恋ができれば、
その恋が終っても
傷はきっと早く癒えるでしょう。
そして気付く筈です。
その傷は汚点ではなく
自分の誇りであったと。
胸を張って
「余す事無くあの人を愛しきりました」
という誇りです。
不思議なもので
そう宣言する事で
破れた恋も
なんだか癒されていくものです。
誰より深い傷を負い、
それを癒す事ができた人は
やはり結果として
本当の優しさを知っているような
気がします。
傷を癒した数だけ
優しくなれる。
しかし、
いやだからこそ
癒し、癒される事を知り、
人の心の理解出来る
優しさを身につけるには、
前もって傷つく必要がある。
故に
恋というものは
傷つくのが普通なのです。
傷ついて当然なのです。
一度も苦しまない恋など
どこにも無いです
それ故に
恋というものは
甘酸っぱく、
しかし過ぎてみれば
もう一度してみたい
そう思えるものなのです。