愛でる目線

何かにつけて
「愛でる心」というのは
大切な事だと思うのです。
芸術は
見たり聴いたりする者の
「愛でる心」によって
命が吹き込まれます。
愛(め)でなければ
ただの落書きであり、騒音なのです。
元来、芸術というものはそういうもの。
ただ、この世にある物事の
あらゆるものにも
同じ事が言えるのです。
この世に存在するあらゆる物事を
愛でる対象として捉えれば、
そのあらゆるものに
愛すべき命の息吹が吹き込まれます。
そうすると
見えている現実の
解像度というか、
精緻さが桁違いに跳ね上がるのです。
何も愛(め)でない現実が
100年以上前にあった
モノクロであちこちに
傷の入った無声映画の映像だとすれば、
愛でる現実は
それこそ
総天然色3Dデジタルハイビジョン
であるような、
それほどに見える世界が
違うのです。
大昔のフィルムと
最新のデジタル映像、
どちらが実際の現実に近いか
一目瞭然です。
朝出かけるとき玄関で目にする靴にも、
外で遭遇する街並にも、
夜寝る前、歯を磨く時に使う歯ブラシにも、
とにかく
目につくものに
愛を見いだしてみる。
ひたすら愛でてみる。
そうしていくうちに
見ている世界に愛が満ちて、
あれがあれ、
これがこれ、と言った
そうした境目や判断基準が
意味をなさなくなってきます。
というか、
何につけ区別する事など
本当にどうでも良くなってきます。
所詮、
この世を形作っているものすべて、
それを形成する材料、原料は
自分自身を含め
全部ひっくるめて
「愛でるべきもの」なのだと
思えてくるから。
慎重に自身の心、意識の動きを
見ていれば多分気付くことなのでしょうが、
人の認識というものは面白いもので、
ある物事を
自身がこうであると規定した瞬間に、
その物事は
そうであるように
意味を持ちはじめるものなのです。
愛でれば、愛という認識を受け取る。
憎めば、憎しみを認識してしまう。
嫉妬すればそれが嫉妬を掻き立てる。
それは壁に投げたボールが
跳ね返ってくるといった
そんな
のんびりしたものではなく、
鏡のそれと同じように
反射してくるのです。
あまりに当たり前なので
人はそんなことを
いちいち意識することがないので
つい忘れがちになりますが、
それ故に
世界は自分の認識によって
構成されているのです。
自分が不快な思いをしたくなかったら、
ネガティブな想いを
対象に向けない方が懸命でしょう。
なおかつ可能なら
愛を向けることが出来ると、
きっとそれは
ストレスを溜めない
一番良好な状態なのだと思うのです。
これは妄想でしょうか。
いや、もうその問いでさえ
愚問でしょう。
それが真実なのか、そうでないのかは
問題ではないのです。
ただそれで自分の心が
至福の森の住人であれば
それで良いわけですから。
心穏やかであるのに
わざわざ、不快な物事の中に
自らの身を置こうなどとは
思わないでしょう。
それどころか
そんな事に興味すら湧かないと思います。
いずれにせよ、
世界とはそんなものなのだから、
見るものすべてを敵と見なすと、
それらは本当に自分に仇を成す敵となります。
そういう目線でこの世を眺めるのも
また何かしら得るものがあるのかもしれませんが、
すべての物事に
愛を見いだす目線で
この世を見ていた方が、
自分にも他人にも、社会にも
優しく、また建設的だと思うのです。