僕の敗戦

昨日は
僕の驕りによって
僕の周りから人がいなくなり
自業自得で人生を踏み外した、
そんな話をしました。
これが僕の人生、最大の失敗
だったわけですが、
結局それが何をもたらしたか、
これも書き残しておかなければ
ならないように思うので、
長くなるけれど
これも記しておきたいと思います。
バンド解散後は何をやっても
ものにならず、上手くいかない人生。
打っても響かない
そんな毎日。
ララ・ルミナスとして
ネットで楽曲を公開していた頃、
まあそれすなわち
今の今までの僕の音楽
すべてに渡って言える事なのですが、
ほとんど、それこそ99%の人が
スルーしていくのが
実情です。
僕のこのブログだって
読んでる人がどれほどのものか。
実質、10人もいないのではないでしょうか。
それはさておき音楽の事ですが、
確かに僕自身にはまだ、
自分の作った歌を聴かせるだけの
実力も才能もないのかもしれない。
けれど、それを認めつつもなお
人からことごとくスルーされるほど
そんなに僕の音楽はつまらないのだろうか?
心配になって
同じようにネット上で音楽を公開している人の
音楽をいろいろと聴いてみても、
僕の音楽が特別劣っているようには
どれだけ自分を卑下した耳で聴いても
そうは思えません。
それどころか不思議なのは
明らかにJ-POPやアニメソングの
メロディーや言葉のフレーズを
あちこちから
拝借してきて繋いだような
それこそ
『素人が作ってみたw』的な
ノリの音楽に
何故かそれが
お世辞なのか真意なのか知りませんが
実際に絶賛のコメントが多くよせられ、
事実、ダウンロード件数も桁違い。
中には
○○(アーティスト名)さんのような曲で
大好きです!!
みたいな感じのコメントがあって、
これ皮肉で言っているのか
本当に聴く人の意識が低くて
そう思っているのか
判断に困るコメントも多数見かけます。
同じように音楽を作っているのに
どこでこんな差がつくのか?
これは未だに謎です。
そんな疑問とギャップを抱えつつ
現状を打開しようと
ライブ活動もしたりしましたが、
そこも昔のような空気は無く、
友達がライブやるから来てます的な
なんだか内輪だけで盛り上がっているような、
カラオケの延長のような
そんな閉じた空間でした。
正直、打ち明けますと
自分自身、
一人二人の前でステージで唄っていながら
「自分は今何をしているんだろう」と
疑問を抱かずにいられませんでした。
完全に僕は自分にとっての
音楽の意味、意義を見失っていました。
完全に人生を諦観して
惰性で音楽を作っていました。
それがこじれて精神も病んで
入院するはめになったくらいです。
結局僕自身、自分の今置かれた
現状を認める事が出来ずに
10年以上も抵抗し続けていたんでしょうね。
現状の何もかもに抵抗し、
否定し続けていくうちに、
拒むばかりで
僕自体が何も引きつけない
人間になってしまっていたんでしょうね。
思い返せば僕は
産まれてからこのかた、
「謙虚に受け取る」ことを
何故だかずっと拒み続けてきたように
思えます。
この生まれ持ったパーソナリティが
自分の首を絞めていた。
今となってはという話になってしまいますが、
もっと素直に人の想いを
受け入れていれば
それを受け取って
純粋に「ありがとう」が言える自分でいたなら、
また違った道が開けたのかもしれない。
これから先は
「ありがとう」の言える生き方を
していくべきだと思っています。
で、一昨年の暮れあたりから
去年の年始めあたりの頃でしょうか。
精神的にも持病的にも悪い状態が続いて
何度も入退院を繰り返していたのですが、
それがもとで
最低限の生活以外、
本当に何も無くなってしまい、
そんな生活を続けて数ヶ月、
それこそ去年の
晩秋とか冬の初めとか
それくらいの頃の事だったと
記憶しています。
いや、
今年のお正月くらいだったかもしれません。
抵抗出来る術はすべてやり尽した。
それを持ってしてもなお
結局、希望の光は見つからなかった。
今までやってきた事以外に
するべき事は
本当にもう何も無いと思いました。
本当に全部やった。
今でも
これをやっておけばというものを
思いつきません。
人生が終った気になりました。
ここのブログでも
「なんか人生、エンディングに入ったかも」
なんて書いたことがあります。
そして
人生終ったと思ったら、
今度は本当に死にかけました。
今年のはじめの話です。
身体中にバイ菌が廻って
危篤状態に陥り、
汚染された自分の血液は
輸血の汚染されていない新しい血液に
すべて入れ替わってしまいました。
あとから病状を聞くに
死んでいてもおかしくない
症例だったと知って、
ああ、自分は生まれ直したかも
なんて思ったものです。
生きながらにして
人生、2周目に入ったという気分。
じわじわと
自分は完全に負けたのだという自覚が
湧いてきました。
僕の長く続けてきた
人生の戦いに対して、
そこではじめて
「完敗」を認めました。
自身が敗北した事実を
ようやく受け入れました。
はい。
僕は負けました。完敗です。
まいりました。
もう「ぐうの音」も出ません。
僕が間違っていました、ごめんなさい。
「それ」はこのままだった。
それはどうあがこうとも
それ以外のものにはなれない。
だから「このまま」を受け入れるより
他は無い。
そう思い至りました。
無条件降伏です。
もうどうにかするような
力なんて残っていない。
そう思って
無駄な抵抗をやめて力を抜いたら
何もかも抜けて、
それこそそれまで
自分の心を重くしていた
ありとあらゆる重石が抜けたら
本当にすうっと心が軽くなりました。
本当に何もかもが抜けて空っぽになりました。
人間、ここまで心が空っぽになるものかと
思えるほどに。
そうしたら今度は逆に
幸せになってきたのです。
あまりに長いこと
ツイていない事が続き過ぎて
ハイになっただけなのかもしれませんが・・・。
ただその事によって
戦わなくてもいいんだ、
いや
そもそもその人生の戦いも
自分の作っていた
ただの思い込みだったのだと
思い至りました。
とにかく
それまで持っていた、
持ち続けていた物が
すべて無くなって
人生にリセットがかかり、
何か別のものに刷新された感覚は
身体が回復して退院した後も
しばらく残っていました。
ブログにもそんな違和感を書いたことがあります。
それがつい今年の春頃、先々月とかの話です。
敗北を認めたのもそんな頃です。
本当に何もかもが空白だったのですが、
煩わしい物が何も無くなった分、
変わらない根本の部分が簡単に見つかりました。
僕の中で
最後まで残り、最初に持っていたもの。
人生の1周目から2周目に
持ち越せたもの。
それは
愛する心と
そこからのみ産まれる
詩(文学)と音楽だけでした。
今もこれ以外のものは
本当に持っていません。
自分を自分であると規定する枠を
取り払うと、
こうも人は楽になれるんだと思ったし、
その枠は本来の自分の本質を
歪曲してしまうものでもあったのですよね。
今、これ以外の物事、
想いを煩わせる物は実際に
質量があるように重いです。
これ、要らないです。
持っている意味も分からないです。
自分を型にはめる枠など
煩わしくて身に付けたくもない。
何も持たない
この身軽さを覚えたら、
生きる事をややこしくさせるものを
わざわざもう一度
背負って歩こうなんて、
とてもじゃないけれど
考えられなくなっていました。
詩と音楽と愛。
これだけ持っていれば、
欲張らずに他のものを
抱え込む事無く、
ただこれだけ持っていれば、
僕の世界はそれで完全に調和する。
最近、僕がブログで
「愛」という言葉を
よく口にするようになっているのですが、
元を辿ればそういう事なのです。
詩と音楽に関しては
今、放流するために
一生懸命育てている最中です。
これが僕の外へ出ていくには
まだ少し時間がかかりそうです。
すると
現状、僕が持っていて
今すぐ外へ出す事の出来るものと言ったら、
「愛」しかない。
だって他に話す事が無いのだから。
もっとも
踏んだり蹴ったりの人生に於ける
ランナーズハイに
なっている可能性もありますが、
それでも
自分が心穏やかで
人に迷惑をかけているわけでもないし、
むしろ
心の底から湧き出てくる
この穏やかさを
他にも分けてあげたいとさえ思えます。
それはそれで、
何の罪も作らないので
まあこれはこのままで良いのかな
なんて思っています。
本当は今年のはじめに
僕自身は死んでしまっていて、
身体が無くなっているにも拘らず
魂だけが残って
今この現実を経験しているなんてことも、
実際に生死の境界線に直面した身からすれば、
あながち感覚としてそれは
荒唐無稽とはどうにも思えない。
でも身体が無くなっていたとしても、
まあこれに関しても
それはそれでいいかな、
というか
生物学的に
生きていようが
生きていまいが、
今ここに僕という意識がある。
僕という意識が存在し、
文章を書き、
音楽を紡いでいる。
それ以上の事に、
意味付けの必要性を感じないもの
正直な気持ちです。
自分の居る場所。
そこが世界だったのですね。