地獄をも愛せよ

世界とは、
この世界のすべてというものは、
最上にして清浄なる天国から
重く低く泥のような地獄まで、
それらすべてを包括するものなのです。
人は天国の心地よさばかりに目を向け、
誰もがそこへ行きたがりますが、
そこへ行ったからと言って
決してこの世の真理などは見えてこないでしょう。
人は
心地の良いものを愛する事は出来ても、
不快なものまではなかなか愛せません。
しかしそのままでは
真理を生きる人にはなれない。
自由と調和によって澄み渡る世界から
束縛と混沌によって淀む世界までの
あらゆるすべてを
網羅し包括して愛せた時、
はじめて世界は完成するのです。
少なくとも
自身から見える世界の中に
見たくないような
醜悪な物事があるのなら、
それを認め、赦し、
愛せるようになるのが
目標なのかも知れません。
その心を状態の事を人は
「慈しむ」と呼びます。
すべてを慈しんでいる時、
人は愛に成れます。
まだ愛せないものがあるのなら
それはそれで良いでしょう。
光も闇も同等に愛せないのであれば
せめて、日の当たる場所に
居る事が出来れば理想でしょう。
ただ
日の当たる場所も
影になっている場所も
光と影の境目さえも、
それらすべてを合わせたものが
世界である事は
心のどこかに
留めておいた方が良いかもしれません。
その認識がいつか
役に立つ日が来ると思うのです。
だからこそ
日の当たらない場所だからと、
異質なものだからと
目を背けるような事が
あってはならないのです。
異質なものと
対峙出来るからこその
この世界なのですから、
その異質なものさえ、
違和感を覚えるのさえ
慈しまなければ
完全に世界の全てを愛していると
謳う事は出来ないですし、
それは転じて
自分の認識を許せていない、
つまり愛せていないという事にも繋がるのです。