怒りの正体

世の中に憎しみが蔓延しています。
憎しみは怒りとなって顕われる。
そもそも
怒りの正体とは何なのでしょう。
怒りとは
自分を守るうえでの
本能的な感情のひとつです。
自分を守ろうとするが故に
外部に対し威嚇するための
衝動なのです
世の中、皆が怒っている
という事は
それ即ち、
皆が怯えているのです。
何かしらに皆、怯えているのです。
皆が何か、
それは人によってそれぞれでしょうが、
何かを失う事を怖れているのです。
それは立場かもしれないし、
富かもしれないし、
命かもしれない。
本能的に皆が
その盲目的な「身の危険」を
感じているのです。
その「身の危険」は
それまで生きてきた中での
経験によって生まれた
罪の意識という思い込みだったりするのです。
表面上にせよ、無意識下にあるにせよ
罪の意識があると、
「自分がこれでいいのか」という
不安に駆られるものです。
たしかにこれが
良い方向に機能すれば、
それは間違いなく
自身を慎ましい美徳ある
人格に育てるでしょう。
しかしあまりに
漠然として理由もよく分からないような
罪の意識は
自分の中のやましさを隠しはじめ、
他者を信じる事を否定するようになっていきます。
他者を信じられなくなった人は、
やがて
自分の中だけに隠し持っている筈の
やましさを突いて
自分を危機に陥れるのではないかと
疑心暗鬼になります。
そうなると
他人の一挙手一投足が
自分を脅かすもののように映り、
怒りという感情を顕して
威嚇しようとするのです。
「やられる前にやってやる」
という意思がそこに生まれます。
今、世間では、
それはネット上でもそうですが、
例のいじめ事件に対して
鋭い怒りを覚えている人が多いです。
これは、この事件を通して
それを自分の身に置き換えて
いじめられた被害者の少年の
怖れを疑似体験し、
皆がこの事件そのものや、
加害者、それに関わる人たちに対して
自分を守るための
威嚇として
怒っているのです。
皆、怖いのです。
自分も被害者の少年のように
なってしまいかねないと
怯えているのです。
怖くなければ怒る理由もありません。
ならば、この怖れを
どう昇華させていけば良いのか。
きっと昇華など出来ないでしょう。
人が失ったら困る何かを持っている限り
常に必ずつきまとってきます。
自分の中に閉じ込めておくから
それが無くなったり
暴かれると困るわけで、
それならば
正直であれば良い。
常に真実であれば良い。
嘘偽りのない自分を
他者に見せても
何一つやましくない自分になれば良い。
誰も嘘偽りを語る者がいない事を
疑う事無く信じる事が出来れば、
少なくとも
つかみ所の無い
漠然とした恐怖、不安からは
解放されます。
それが出来た時、
人は怒りから解放されるのです。
怒る想いは
怯える心の顕われなのです。
一過性の防御反応に
心を飲まれてはいけないのでしょう。