世界

それは本当に昔から。
人が歴史というものを刻みはじめた頃から
すでにそうだったのかもしれません。
人は他の誰よりも
富や権力を手にしたものが
強者であるという思い込み。
いつからも分からないほどに昔から
ずっと今まで
そう思い続けてきたし、
それが前提となって
社会が構築され、
そこ枠の中で
人の人生が繰り広げられてきたのは
事実です。
けれど真実は、
富や権力、
その他の即物的な物事のだけが
世界のすべてと考えるのは、
世の真理の本当に上っ面を
なぞっただけの事であり、
世界の本質というものは
もっと奥深くにあるものなのです。
きっと現代だけではなく、
大昔から
その真理に気づいた人は
誰かしらいたのでしょう。
しかしそれに気付ける人間は
本当に少なく、
大抵の大勢という集団は
それでもやはり
世の本質の上辺だけを認識しただけで
それが人生、世界であると
信じて疑わないから、
ごく一部の
気付いた人は、
そうした世俗に興味を失い
自らそこに線を引いて
離れていってしまうか、
もしくは
盲目的な大衆に失望し
嫌厭的な世捨て人となるか、
悪くすれば
迫害されてしまった人も
いるのでしょう。
どういう形にしろ、
そういういきさつで
気付いた人たちというものは
大衆という全体性から
ドロップアウトしてしまうので、
結局、結果として
即物的な現世利益だけこそが
正義であると信じて疑わない人たちだけが
世俗に残り、
そうした人のための
世作りがなされてしまうのです。
これが競争社会へと育っていくわけです。
強いものと弱いもの。
今もこの価値観が
世の多くの人の意識の中に
根深く刻まれています。
人は「趣味嗜好、思想の多様性」は
容認出来ても、
未だ「価値観の多様性」までは
手放しで受け入れられないように思います。
マジョリティのコンセンサスこそが
正義であるという
幻想から未だ離れられないし、
これが人の心を
隷属化し束縛する。
マジョリティのコンセンサスにのみ
有利に働く社会構造というものは、
一見、効率的かつ平等に見えるのですが、
実のところ
社会という骨格に
負荷をかけ、摩耗させ
倒壊させるリスクを常にはらんでいるのです。
事実、人の歴史は
この「社会の骨格」が瓦解する瞬間を
ことあるごとに
経験してきました。
きっと今だって、
社会の骨格が軋む音が聞こえるのだと思います。
ひとりひとり、
個人個人の持つ
多様な価値観を受容しあえる
世の中であるだけで、
この世にある多くの物事が
丸く収まるでしょう。
しかしながら
そのような世の中が実現しても、
争いは絶えないのかもしれません。
自由な価値観を獲得したからと言って、
人に等しく幸福が与えられるわけでは
ないから。
幸福は受動的に
訪れないかも知れませんが、
価値観の自由を
受容する事で、
同種の価値観の者同士の
結びつきを強めていくことでしょう。
争いを好む人は
同じ価値観で行動する人同士で争い合い、
権力や富を欲するものは
同じ価値観で行動する人同士で
我先にと利益を奪い合う、
そんな限定された世界の中で
生き続けるのでしょう。
似たもの同士が
そう信じきっている世界の中で
それを味わう世界。
類は友を呼ぶと言いますが、
価値観の多様性を解放するという事は、
自然に同種の人間同士で
集まり合う力学が働くものなのです。
故に、
愛と自由と調和を愛する者は
自ずと
それらを愛する者同士で、
その世界を生きる事が出来るのです。
同種の者たちで集まり合う。
同種の質のものが集まり、
その「質」という「場」を形成する。
きっとそれが
自然の摂理に適った
自然な在り方。姿。
しかし、
同じ価値観に同調しているものだけを
見ているだけでは、
本当の意味で世界を知った事にはならないのです。
天使の住む世界もあれば、
修羅の住む世界、
亡者の住む世界もある。
それら、あらゆるものを含めた
すべてが世界であるのだから、
世界全体を体験するには
あらゆる価値観、精神性が
混在して存在出来る
「この世」がどうしても
必要となってくるのです。
天国の花園から
泥沼の地獄まですべてを見たうえで、
自分はどこに属し、
またこれからどこへ属していこうとするのか、
それを知るために人は
この世に生を受けてたのではないでしょうか。
そういう意味で考えると、
人は
人の一生、一回だけで
それら
すべてのものを
すべての視点で見るには
あまりにこの世は
縦にも横にも奥にも
広過ぎるのです。
皆で手分けをして
何回も数を重ねて
全てを見なければならないほどに。