罪人に人権は要らない

罪人の人権は重視されるにも拘らず、
弱者の人権は軽視される。
これ、日本の実情です。
この構図は
どう考えてもおかしいと思います。
人権とは、弱者を作らないための
救済策であった筈なのに、
いつの間にか
悪意の隠れ蓑になってしまっています。
はっきり言いましょう。
犯罪者に人権は要らない。
老若男女等しく
公正なる罰を受けるべきです。
故に少年法も要らない。
罪を犯した人間は
その罪が確定したら
その罪に見合っただけの
懲役の期間、
人権を剥奪して
牢屋にぶち込んで
臭い飯を喰わせておけば良いのです。
それで生きて塀の外に出てくる事が出来たら
おなぐさみ、
そのような扱いで良いのです。
犯罪者に衣食住という
人の尊厳を
満たしてやる必要はないのです。
それがいかなる罪の大小なりとも、
それを犯す者は
社会のヒエラルキーの
最底辺にあるという事を
理解しなければならないし、
そう扱わなければならないし、
そう扱うべきです。
罪人、人にあらず。
この意識を植え付けなければならない。
それが償うという事。
それだけの贖罪を課す以上、
罪の確定に至るまでの審理は
厳正かつ慎重に行なわなければならないでしょう。
そして
真に更生し、刑期を終えたなら
その時には社会は再び
その「元」受刑者を
暖かく迎え入れてやるべきでしょう。
刑期を終えた受刑者が
社会に出ると
多くの場合は
社会的弱者の立場に於かれる事になると
思われます。
社会は弱者に優しいでしょうか。
社会は弱者の人権を
尊重しているでしょうか。
元受刑者が更生し、再起を望んでも
世の中がそのような風当たりでは
塀の中に居た方が
居心地の良さを感じる者も
居る筈です。
そして再犯の要因を作る。
人権は人に
生温い環境を与えるものであっては
ならないのだと思うのです。
人権は善良なる弱者を
救済し、自立を促すための
法であるべきなのではないかと
考えます。
しかしながらこれも、
結局人の意識が変わらなければ
絵に描いた餅。
人に差別意識がある限り
人権侵害の根を断つ事は出来ません。
人間ひとりひとりに
平等意識というモラルが無ければ、
真の意味での人権など機能しないのです。