頭の良い人とは

一般的に
「頭の良い人」と聞いて
はじめにどんな人間像を
イメージするでしょうか。
僕の視野が狭いだけかもしれませんが、
わりと多くの人の
「頭の良い人」像というのは、
やはり論理的で数学や科学(化学)の
分野に長けている、
そんな感じの人間像を
思い浮かべるのではないかと思います。
文系、理系という思考形態の分類で
比べる時やはり、
事実として
理系の人の方が平均年収が高いという
調査結果もあるようですし、
子に対して
理系の道を進めば
高い給料の貰える職の道に進めると
思い込んでいる親もいるようです。
ただ、例えば理系、文系の
平均年収という結果を
このまま鵜呑みにしてはいけません。
その裏を読み取らなければ。
文系と理系のうち、
必要とされる
スキル、特性が要求される
いわゆる専門職の多くは
理系の道を進んで得られるスキルであり、
その数ある専門職の
一部の特殊な職業の人たちが
平均年収を引き揚げているだけに
過ぎないのです。
そもそも理系と文系で
年収を計る事自体、
考えてみれば無意味な事だったりします。
業種によって平均年収は様々ですし、
年収は高くても
労力に見合っていない事例も
多々あります。
多数の平凡な、単なる
理系思考の理系脳というだけでは、
社会に出たところで
扱いは文系も理系も
それほど差はないのです。
社会に出れば単に
「そういうタイプの人」という
くくりで見られておしまい。
「おまえ数字が得意だからこの仕事をしてよ」
とか
「おまえ喋りが得意だからこの仕事してよ」
所詮はせいぜい、その程度の扱いなのです。
平凡な頭脳を持った人というのは。
理系だから有利と言うのは
完全なる幻想です。
何かを設計する人は
たしかに事務的なデスクワークをする人より
給料が良いかもしれません。
しかし、
指導された通りちまちまと
機械と機械を配線するような
仕事をする人より、
軽妙な営業トークで
仕事をとってくる人の方が
給料も良かったりもします。
そもそも、
本当に頭の良い人というのは、
理系であっても
文学的なリテラシーを持ち合わせているし、
文系の人でも
自分の書く文章に対して
ロジカルな弁証の裏付けを完璧に付けられるもの。
だから決して、
理系が文系より優れているという事は
全くないし、
まして一概に
理系は高収入とも言い切れないと
思うのです。
結局要は、
自身の能力が与えられた仕事と
マッチしているか、そうでないかの
違いがあるだけなのかも知れません。
文系、理系さらには、
創意工夫の向き不向き、
肉体労働の向き不向きに拘らず、
稼ぐ人は稼ぐ、だたそれだけの話なのです。
だから
文系、理系というくくりだけで
品定めする観念こそが
不毛極まりないのです。
そこからさらに飛躍して、
理性と感性という二元論にも
同等の事がいえます。
理性とは論理的に物事を判断し
答えを導きだす特性をもった能力です。
逆に
感性とはインスピレーションや想像力から
答えを導きだす特性を持った能力。
どちらも答えに至る道筋が
正反対であるだけで、
最終的には同じ答えに行き当たる。
これが真理です。
結論を言ってしまえば
どの道を行こうが
好きにすれば良いだけの話なのです。
理性は物事の方向性を調える力を
持っていますが、
行き過ぎると
かえって、その物事の持つ可能性を
限定してしまいます。
感性はあらゆる物事の可能性を
無限に提示し続けますが、
行き過ぎると
方向性を失い混沌とし、
地に足がつかなくなってしまいます。
かといって中庸であれば良いかと言えば、
そういう問題でもないでしょう。
世の中の人が皆、一様に
中庸な考え方を持つことは
「個」の多様性の観点からしても
不健全な在り方だと考えます。
この理性と感性のさじ加減は
人によって千差万別であり、
ありとあらゆる
さじ加減を持った人全てを合わせて
世界は完成しているものなのです。
故に、
理系、文系という
両極で人を判断してしまう事は、
いたずらに無くても良いような
対立構造を育てる素地になりかねないのです。
理系の極地に立っている人間に
美しい詩を書けというのは無理があるし、
文系の極地に立っている人間に
この積分を解けと言われても難題他ならない。
得意な人がそれをするのが
一番ベストですし、
本来のあるべき
理想的な構造だと思うのです。
早い話が、
バランスの問題なのです。
理系、理性。
そして文系、感性。
それは個人、個性の中での
バランス感覚であると同時に、
その個性たる個人が
社会や世界との関わりの中で
どういうバランスの元に
自身が存在しているかという
模索に到達する性質のものなのです。
どちらが優れて、
どちらが劣っているかという問いこそ
甚だナンセンス。
論点はそんな浅いところにはありません。
自他ともに、その特性を把握し
どう建設的な世作りを出来るか、
そこを問わなければならないと思うのです。
喩えて言うなれば
今、夜空に流れ星が落ちました。
この流れ星を見て、
「あれは宇宙のゴミが大気の摩擦の熱で(以下略)」
と語る人と、
「ねえ、今どんな願い事をした?」
と問う人、
自分がどちら側の話をする人で、
また自分は
そのどちらの人と仲良くなりたいですか、
それを知る事で
自分の存在する世界が
見えてきますよ
という話なのです。
ただ、
本当に頭の良い人は
流れ星を見た時の
両極的もしくは
あらゆる概念のバランスが混在した
それらの反応全てを包括する
「あり得る可能性」として把握しており、
多角的に幾重にも張り巡らされた
世界観、概念や観念などという糸の接点と
その接点が全体の
どこに位置しているのかを
明確に把握している人なのだと思うのです。
一言でざっくりと簡単に言うなれば、
『場の空気をちゃんと読んで、
不自然無くそこに溶け込める人』
それが頭の良い人である
と言ってもいいのかもしれません。
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