教育について

当然のことではありますが、
現代の教育というものは
例えば、
語学、数学、科学、などのように
ジャンルを分けて個別に学びます。
ジャンルを細分化することで
その分野に特化した
スペシャリストや、オーソリティを
育てるには
確かに理に適った教育法だとは思います。
ただ少なくとも
日本でのそうした細分化された
教育システムというものは、
かえってそれが災いして
木を見て森を見ない人を
多く育ててしまっているような
気もするのです。
一つの分野に精通しながら
全体の中で
どのように位置づけ、方向性を見いだし、
いかに
世の中のバランスを取るために
それを活かすか、
そこまで思慮の及ぶ人は
今の日本にはなかなか
いないように思うのです。
みんな自分の得意分野だけで
いっぱいいっぱい、
という印象を受けます。
海外の、
特に欧米の識者には
自分の得意分野という
立ち位置から
世界全体を
オリジナリティと機知に富んだ
深い洞察で認知している人が
割合として多い気がします。
というか日本人の場合、
そうした世界観で
ものを見ることの出来る人の
割合が極端に少ないと言った方が
正確なのでしょうか。
欧米も日本も
おおむね同様の教育システムの元で
教育を受けているにも関わらず、
何故このような差が生まれるのでしょうか。
差をもたらすものはきっと
社会構造や国民性による
メンタリティやモラルの違い
なのではないかと考えます。
日本人は学歴というステータス欲しさに
盲目的に知識を詰め込みますし、
社会もステータスを重用します。
こうした流れから
社会構造は生まれ、
気付けば社会の隷属となっていく。
幼い頃から
頭に記憶出来るものは
精一杯詰め込んで、
一定基準、条件を満たしたものが
「社会」という世界に出ていく。
人はこれを美化して
「巣立ち」などという言葉で
賞賛しますが、
実際はそうではない。
冷ややかな目で見ると、
そうやって社会に出ていく人々は、
化学飼料の混ぜられた餌を
強制的に喰らわされ
固肥りしたところで
市場に出荷されていく
家畜そのもの。
家畜の目をして
リクルートスーツを身に纏い
就職説明会に赴く若者を見ると、
こんな家畜の目をしたまま
将来偉い人になって
人を動かすようになるのだろうかと考えると、
薄ら寒い気分になります。
信仰の対象が
キリスト教から
資本主義、市場原理主義といったものに
挿げ変わっただけで、
彼らは
かのニーチェからすれば
「畜群」なのでしょう。
悲しいかな、いつの世も
社会はその「畜群」と呼ばれる
圧倒的マジョリティの都合に合うよう
構築されるもの。
だから「畜群」が
求道者の物言いを嗤うのは自然な成り行き。
「畜群」にとって
問うことや疑うことは
ナンセンスこの上ない事だから。
ニーチェはここに怒っていたことは分かります。
だから
主体性のない
ごくありふれた一般大衆を
「家畜の群れ」と揶揄して
溜飲を下げたかったのでしょう。
だからと言って
その時、その時の
社会通念を妄信して疑わない人に対して
一段も二段も高い位置に
自らを設定し吠えたことは
ニーチェの間違いだったのでしょう。
ニーチェのニヒリズムは
単なる社会の跳ねっ返りの思想なのですよね。
学ぶ前に学ぶ動機、つまり
志が必要だよね。
志を持つには
個人の自主性、主体性を
育てなければいけないんだよ、と
やんわり言っておけば
丸く収まったものを、
対立構造という二元論で
マジョリティを批判する論法は
すくなくとも今現在、
そしてこれからの社会構造の在り方
という面に於いて
あまり感心出来る思想ではない
と感じます。
教育に関して、
少なくとも日本に於いて、
その入り口で
「何故学ぶか」という哲学を
語る者がいないし、
語れるものもいないし、
また当然、学びはじめる
幼い子供にそれを問えるわけもない。
いや、問うても
教育者はおろか親でさえ
「四の五の言わずに勉強しとけば良いんだよ!」
で、話を切り上げてしまいます。
これでは子供は
自主性や主体性を養う
素地どころか機会さえ与えられない。
これは不幸なことです。
何故学ぶのかと問うた時、
真剣に、丁寧に、
そして子にとって
善き将来へと誘導出来るような
学ぶ意義を語れる大人が
日本に果たしてどれだけいると言うのでしょう。
結局、動機不在のまま
知識だけを記憶することに終始する
幼少期を送るから、
主体性や自主性が育たないまま
大人になる訳で、
いざ特定の知識を特化して
極めていく段階になった時、
本当に「それしか知らない」人になっている。
学ぶ者の自主性や主体性を重んじる
教育の仕方をするなら、
従来の切り分け式の
教育システムでは無理が出ると思うのです。
自主的に学ぼうとする気があるのなら、
それがある特定の分野のことであっても
その分野以外の見地から
それにアプローチする必要性も出てきます。
切り分け式の教育システムでは
このような機会をフォロー出来ないのですよね。
例えば、
文学的として数学を考えるとか、
逆に
方程式に文学性を見いだすとか、
そうした視点に対して
そこから生ずる問いに
答えを出せる教育者がいないのです。
自分の専門分野を
専門分野の視点から論ずることは出来ても、
専門分野外のアプローチをされると
誰もが黙ってしまう。
そして黙殺してしまう。
だから結局、
教育を受ける側も
専門分野の枠組みの中だけでしか
ものを考えることが出来なくなるのです。
そうすると、
社会の全体性というバランスの
イメージを捉える目が育たなくなり、
得た知識の社会的意義を見失うから、
社会はとりあえず
ステータスを基準に人を量るようになり、
それがやがて学歴社会となり、
人は自分の本当の意味での
社会的役割を見失い、と
悪い循環を生んでいくように思うのです。
細分化された教育を受ける前に、
世の中全体の中で
自分は何者であるかと
問う心を基礎として養っておかないと、
そんな社会の悪い循環を動かす
家畜となってしまうよ、
という事なのです。
もっとも、
自分が何者かとか、
自分にとっての天命は何かとか、
幼い頃から悟っている者もいれば
一生分からないまま
死んでしまう人もいるわけで、
そんな咲くとも分からない
花の開花を待っていては
社会が成り立たないという問題点もあります。
だからとりあえず、
天命を知るまでは
家畜に成り下がるのも
致し方ないのかもしれない。
ただ本当に天命を知った時、
その道が今いる道と違ったとした時、
今いる間違った道から
ドロップアウトできる勇気と覚悟は
持っていた方が良いと思います。
また社会も
天命によってドロップアウトしていく人を
受け入れるだけの
感受性を持っていなくてはいけないでしょう。
天命を知って、
本来の自分の生き方と
違うことを知りつつも
諦観して、
矛盾を背負った人生を送るのも
それはそれでまた自由でしょうが
いかんせん、
そんな生き方は実にもったいないと思うのです。
そんなもったいない人生を
歩ませないようにする事、
真の教育の本質だと思うのです。
最終的に何が人に有益なのかという
判断を誘導するのが
教育だと思うのです。
教育は労働力を育てるものと
規定してしまうと、
社会はいろいろと
危険な方向に
向かっていくのではないかと、
そのように考えるのです。