作者が見えない時代

最近は音楽を作る
アーティストよりも、
そのアーティストが作った音楽を
選んで流すDJの方が
ステータスが高いのだそうです。

僕のように作る側の人間からすれば、
人のふんどしで
よくまあ堂々としていられると
感じる部分はあるのですが、
もうこれは時代の流れとして
致し方のないことなのかもしれません。

考えてみれば料理などで喩えるなら、
材料や素材を調理して
人が喜ぶようなコース料理を作る
シェフはもてはやされますが、
材料を作った農家や畜産家が
陽の目を見ることはそうそうないわけで、
はたまた目を移してみれば、
知の産物である哲学書の原書より、
ざっくり噛み砕いた解説書の方が
好んで読まれたり、
インターネットの膨大な情報の
情報源そのものより、
そういうものたちを集めて編纂した
まとめサイトのようなものの方が
重宝がられるのも、
あながちお門違いの構図とは思えません。

吟味、あるいは判断する力が無い人というのは
いつの時代でも一定数いるのでしょうが、
作曲家よりDJの方が注目を浴びるということは
自分の好きな音楽を探して選べない人が
それだけ増えたということでもあるのかもしれません。

もうすでに、『すべてのある』今の時代にあって
新しい音楽はもう要らないのだろうと感じます。
今までに作ったものを再編成、再構成して
「使い回す時代」に入ったのだろうと思います。

考えてみれば、
クラシック音楽やジャズだって
同じような道を辿って、
使い回すことで成り立つものに
とっくになってしまっているわけで、
この中に20世紀のポピュラー音楽という
カテゴリが加わっただけなのかもしれません。

今となってはクラシックやジャズという音楽が
多くの人の暮らしとは
別の世界のものになっていったように、
今その辺で流れている音楽も
やがて人の暮らしの中に「無い物」と
なっていくのだと思います。

この時、多くの人にとって
音楽かという存在はただ概念のみに存在し、
それを大衆に伝えるためのDJという
媒介者によってその存在の片鱗を
うかがい知ることができるのみという
状況になっていくのでしょう。

コメ農家の人が料理人にそのコメを託すように、
あるいは
哲学者が自分の世界観を
よりわかりやすく噛み砕いて説明してくれる
再編者の存在を望むように、
そして神が預言者にその想いを預けるように、
音楽家はDJに音楽を託すのでしょう。