パソコンが作り出す万能感という目隠し

パソコンが爆発的に普及して
およそ四半世紀近くが経ちます。

パソコンの普及、そしてその進化によって
かつて人間が一生かけても
果たすことの出来なかった、
様々な自己表現が叶うようになりました。

例えば動画配信などはその好例で、
素人でも簡単に番組を作り、
発信できるようになったことは、
まさにバソコンやインターネットの普及無くして
叶うことのないことです。

たとえば僕のフィールドである音楽ともまた同様で、
DTM(デスクトップミュージック)といって、
誰でも簡単に音楽制作が出来る
環境が整ったこと自体に
そのまま今の僕の立場があると言って良いでしょう。

そう。今のパソコンは本当に何でも出来る。

ライターにもなれるし、
作曲家にもなれる。
イラストレーターにもなれれば
映画監督にもなれる。
そして俳優や歌手にもなれます。

ただし、ほとんどのそれらの人には
「自称」という定冠詞がつきます。

それは何を意味するかというと、
パソコンの性能のおかげで
人は「かりそめの万能感」を
いっとき与えられているだけに過ぎない、
ということです。

かりそめの万能感は
自己満足の枠から
抜け出すことを嫌います。

だからパソコンという機械は
ともすれば
視野を狭め、成長すらも止めてしまう
恐れのあるものなのでしょう。

そして、自分の狭い世界の中という
範囲の中に限って
常に万能たり得るのですが、
狭い自分の世界以外という
大きく広い実像の世界では
当然、そのような
かりそめの万能など通用するはずもなく、
結局寄る辺もなく
かりそめの自己肯定を促す装置に
依存していくのです。

そのパソコンは、
こうしたかりそめの万能感、
あるいは無能さに目隠しをして
自己満足のみを満たす装置なのか、
あるいは、
己の無能をも補いつつ、
何かしらの一石を投じるための
道具となり得るのか。

一見分かりにくいかもしれませんが、
この差は明らかに
正反対のベクトルをもって顕われてきます。

自分の内側に波を起こすのか、
外側に波を起こすのか、
この差こそが
何かを生み出す結果となります。

パソコン(まあスマホもそうですが)を
目隠しの道具に使うと
人間はどんどん、動けなくなるものです。
それも外圧からの束縛という形をとるのではなく、
自らの力を浪費して
自分の力で動けなくなるするような
そういう質の怖さを感じます。