恋心のキモさと対峙する

愛や恋というものは、
それらの持つ甘美なイメージだけに
没入するだけでは
人間のメンタリティは育っていかないのです。

嫉妬や疑念、特には妄念、執着。

こうした負の面さえもが
恋や愛の影の部分であり、
そしてそれらの一部なのです。

愛や恋の負の側面である
そうしたものは、
今であればともすれば
ストーカー行為につながる質の
感情であり、
色恋ではもっとも下劣で嫌われる
ものであるのは事実です。

もちろん、それを行動に移したのなら
人として完全に過ちを侵しているでしょう。
人としてもっとも最低な
精神性を持つと断言もできます。

ただ、ひとり
『あくまで相手に迷惑をかけない範疇』で
それこそそういう
ストーカーにも繋がりかねないような
負の感情に悶々と苦しむ事自体は、
特に悪であるとは断じきれないどころか、
そういう負の側面もまた
恋の負の側面であることを
受容し、自覚する事は
非常に大切な事ではないかと考えたりもします。

今、こうして愛する人を想う
この今この瞬間、
己の片恋の相手が
別の誰か、相手が愛するという
その誰かと抱き合っているかもしれない、
セックスしているかもしれないと
ふとあられもない妄想に囚われて
疑念や嫉妬、そして
究極ではないかと思われるほどの
完膚なきまでの自己否定、
こうしたものに苛まれて
慟哭と嗚咽が心臓を締め上げて
杭を打つかのような、
そんな痛み、苦しみを知らない人間に、
真顔で
「愛についてより多くを知っている」と
嘯かれても、なんの説得力もないと思えます。

こういう負の感情に苛まれる苦しみがあるからこそ、
真に愛する人が現れたとき、
そしてその人が愛に応えてくれたとき、
またあるいは逆に、
誰かが自分を愛してくれたとき、
そしてその人の愛に
自分も応えようと思えたとき、
負の感情の苦しみを知るほどに
相手が何について寂しく思い、
何について不安を感じるかを
感得できる感受性が育つのだと思うのです。

優しい人というのは、
単に「甘い人」のことを言うのではありません。

自分自身もまた悲しみの淵を垣間見て、
そこでどんな助けを欲したかを
身をもって悟った人のことを言うのです。

そして本当の愛を知っている人は、
愛した人の痛みや悲しみを
我が事のように慰め、
寄り添ってくれる人なのでしょう。

それを完全にしてくれる人が現れたとすれば、
そしてその人が愛を受け入れてくれるのなら、
もうその人のことを
見失ってはいけない。

そのような人は
一生のうちでひとり、ふたり
出会えれば幸運と言えるほど
稀な人なはずです。