愛を知らない人

とどのつまり、
嫌われる人というのは
「愛」の無い人なのだと思うのです。

もう少し深く言うなら、
「愛を知らない人」と言えるかもしれません。

他人に対してだけでなく、
自分にも愛を向けられない人。
そういう人はやはり
好かれないのが道理なのだと思うのです。

それはつまり、どういうことかというと、
少なからずともせめて
自分に対してだけでも
愛のある振る舞い、
つまり自分に善かれと思うことは、
他者との関係性の中で
巡り巡って獲得できるものなのだ
ということを知っていないのは、
やはり愛に対して無知、あるいは
無感覚であるというところに
帰結してしまうのだろうなということ。

愛があれば
与えることによって
自分が得られることを信じているし、
愛のない要求を通すことは
おそらく強奪なのでしょう。

この構図はさまざまな面で
見ることができますし、
一見して「与える愛のようなそれ」に
愛が無い場合には、
愛(のようなそれ)は押し付けられ
受け取る側の自由意志を奪ってしまうことになる。

つまり、愛を与えているようで
愛を奪っている。
例えば、たまに僕が糾弾する
偽善のチャリティなどもこの構造下にある
性質のものだと考えられます。

程度の大小(その差は大きいと思う)こそあれ、
愛に対する感受性を持たない人は
率直に好かれない。

なぜ好かれないのか。

与えようとしていないから。
もしくは、奪おうとするから。

愛というものの真理は、
「得るために与える」ものではなく、
「与えたら自然に得られた」という
構造の中に息づいているものなのです。

だから、
愛を知る人は
どんどん好かれていくし、
知らない人は
どんどん嫌われていくのだろうと思います。

自由、平等、博愛を
自然なこととして
無自覚に実践できる人は
きっと、
徳の高い善人なのだろうなと思います。