恋が叶うとき。

「恋が叶う」
という言葉を聞くと
どういう想像をするでしょうか。

叶った恋というものは
おそらく愛へと昇華できた恋のことを
言うのだと思うのです。

まず前提として、
恋というものは
恋する対象、つまり相手がいないと
できないものなのです。
それに対して愛というものは
「あくまで自分の心の内奥から発露する想い」
こそが本質であり、
これは結局、個人の体験なのですから。
つまり愛というものは
その形質として、
必ずしも対象となる相手が存在しなければ
成立し得ないというものでは無いということ。

相手という対象が存在して成り立つ
愛に関しては、また別件で長い話に
なりそうなので、
ここでの言及は割愛しますが、
要するに今回の記事で気づいて欲しい部分としては
「対象となる人が存在しなくても愛することはできる」
という点、そして
今回は割愛した「相手と関係性の中での愛」
というものも、
まずはこうした「一人称的な愛」が
基底に存在しないと、
その次に体験するであろう
「二人称としての愛」を
上手に体験できません。

たとえ終わってしまった恋であっても、
離れ離れ、もう会うことのない人への恋心であっても、
その想いが愛へ昇華することが
愛の本質であるのなら、
そうした絶望的な外的な条件にあっても
その恋を愛に昇華させて
叶えることができるのです。

こういうと、ものすごく悲しい
物言いに聞こえるとしたら、
それはおそらく
恋心から生まれる
「執着」という側面を
愛する気持ちの目的、あるいは
本質であると捉えてしまっているから
なのかもしれません。

執着が人に与える感情とは
およそ、
疑念や嫉妬、憎しみという質のもので、
実は愛とは正反対のベクトルを持つ
心の有り様でもあるのです。

真の愛を体験したならば、
こそにあるのは
信念や自由、そして充足感を
感じるはずなのですが。

こう考えると、
人同士の愛にまつわるパートナーシップにおいて、
何十年連れ添ったカップルであっても
その恋心が報われない人達は大勢いますし、
結局、こういう人達は将来、
その未だ報われ無い恋心を
別の何か、あるいは誰かで代替するようになって
欺瞞に満ちた人生を送るようになるのでしょう。

逆に、恋した人と
たった1週間しか関わりのなかった人でも、
その人を愛し抜き、
愛のなんたるやをとことんまで掘り下げ、
自分のその思いに直面できた人は
やがて、信念や自由を礎にして
愛することは何かと
答えを打ち出した人は、
結果がどうであれ
おそらくその恋心は
「愛する」という一点において叶い、
実質としてその恋する対象である人との
関係性がどのようなものであっても
報われているのです。

「恋の正解が愛」という考えは
間違いなのだと思うのです。

恋は恋ですし、
愛もまた恋とは違う概念のもの。

確かに恋を苗床にして
愛は育ちますが、
豊かな苗床たる恋無くして
愛は育たないのです。

人の精神という苗床に
恋心はいくつも花ひらくことでしょう。
しかし、本当に実を結んだ恋というものは
少なく稀有なもので、
かといって「たったひとつしか」
存在しないというものでもないのでしょう。
故に、「この人しかいない」という想いもまた
幻想と言えるのかもしれません。

恋についてそこまで
思い至るができた時、
恋心という心象世界は
新しい次元へと入っていきます。

それが「二人称的愛」のことで、
今回、割愛した部分でもあります。

しかし、あくまで
「二人称的愛」に達するには
「一人称的愛」について
しっかり対峙し、
それについて十分に知ることが
必要なのでしょう。
つまり、自分の中で
その恋を叶える必要があるのです。