犠牲か実現か

いささか重複するような形で
「奉仕」を引き合いに出しつつ
述べてきたところの、
「目的か手段か」という考察。

要するに「それを為す」という
事柄そのものが
「目的」であることと、
「手段」であることは
その純然性において大きな隔たりがある
ということを述べてきたのですが、
この考察をさらに展開すると
新たな軸が見えてくるのです。

前述の「目的か手段か」という
評価の軸から、
もうひとつ「犠牲か実現か」という
軸が見えてくるのです。

もちろんこの軸は
「目的」にも「手段」にも
あてがわれて然るべき軸です。

平たく言えば、
「得る」のか「失うのか」という軸。

ここで言う、得たり失ったりという概念は
当然、実質的、実益的な損益を指しているのではありません。
もっと包括的かつ体験的な意味で
「自分は」それにおいて
何か得たのか、あるいは損なったのか、
そのようなものだと思って差し支えないでしょう。

例えば、大怪我をして
大量の輸血が必要な人がいたとして、
「血液型が同じなので、私の血液を使ってください」
そう申し出た人がいたとした時、
この人が差し出した「血液」は
果たして、この人の内的世界における
概念的認知はそれを
「失した」と評価するか、あるいは
「得た」と評価するか。
ここが今、論ずるべきこととして
挙がっているものなのです。

上記の人は確かに、
現実的には自らの血液を
「失った」ことは紛れのない事実です。
そして、この人からの輸血によって
怪我人が一命をとりとめた時、
それでもなお、絶対的実質においては
「血液を失っている」にもかかわらず、
血液を差し出した人はおそらく
目に見えざる、
ともすれば形而上の中だけにしか
存在しないかもしれなくとも、
明らかに血液を提供したその人は
非常に多くものを、
特にこの場合であればおそらく
倫理的な何かしらを「得ている」と考えられます。

最初の提起になぞらえるなら、
自分の血液を「犠牲」にこそしたけれど、
今、眼前にある怪我人の命を救いたいという
その思いは「実現」しているし、
そのことによって、この事象は
完結しているのだと言えるのです。

このコンセプトこそが、
もう何度か似たような内容で書いてきた
「目的と手段」
「奉仕と対価」
という問いに対する解へ導く
重要な軸であるのでしょう。

生きるということは確かに、
食べることで維持されるものであるし、
その生命を維持するための
「手段」としてお金を稼いで
食べるものを買う。

この当たり前の人の営みの中で、
前述の
「目的と手段」「奉仕と対価」「犠牲と実現」
これらの軸の相対的なバランスを
人々は崩したまま、それに疑問を持つことなく
生きています。

ただ、ひとたび
このことに疑問を持って
少しだけでも考えてみるなら、
何故人はこの、いたってシンプルな構造世界を
生きられないようにしているかと
気づくでしょう。

こういう世界にあって、
その根底、基底をどうこう批判したところで
どうなるものでもないのですが、
それでもやはり、この世界の人たちは
「お金」という概念によって
生きることの理念を問うた時、
さも難しいものであるかのように
考えざるを得ない、
そのような世界を生きているのだと思うのです。