最後の選択

薄々、最近感じているのですが、
この世界の時代というか、
時間が逆行しはじめている気がするのです。

何度もブログでも書いた気がするのですが、
最近、時間が過ぎるのが早いねと。

そういう時間感覚が
普通になりつつある今日この頃、
周囲やニュースで報じられるような
世間、世界で起きている事柄が、
人間がこれまで辿ってきた歴史の流れが
逆行しはじめているように感じるのです。

これは、僕の個人的な
内的世界の心象を言っているのではなく、
まさに、今この世間、世界で起きる事が
そのまま人間の歴史を
遡るように起きているという事です。

例えば最近ですと
会社と雇用の関係性は
昔の農場主の と奴隷との関係と同じものだから、
無理してまで、奴隷であるところの
社会人になる必要はないという話をしましたが、
これもまた、一つのその象徴だと考えます。

ここにきて、再び世界が
覇権主義的な思想に流れつつある事もそうですし、
あからさまではないものの、
見えざる全体主義の影は
以前より濃くなっている気もします。

これから先、あたかも
歴史の教科書を逆に読んでいるかのような
そういう世の中の流れを感じる事が
多くなってくるでしょう。

もちろんこれは、
ともすればオカルトにも通じるような
レベルの話ではなく、
要は何が言いたいかというと、
結局、人間は時代を下って行くほどに
比例的に進化していうのではなく、
発展と衰退の波に
ただ乗っているだけの存在なのではないか
という事。
そしていよいよ人類の世界は
下降線を下り始めているのではないか
ということ。

長いスパンで見れば、
人類はおそらく結果的には
穴ぐらで永遠とも言えるような
長い一日を過ごすようになるのかもしれません。

こういう放物線的世界観に
人類の営みがあるのなら、
良くなるのか悪くなるのかは分かりませんが、
いずれにしろどこかで必ず、
この世界を生きる人間、そのものが
入れ替わるように思うし、
恐らく人類は
こうして1000年単位で
何度も入れ替わっているのかもしれません。

歴史の教科書に書かれているような
文明を築いた人たちも、
きっと頂点を極めて
それが昇華し、
人を生きる必要の無くなった人たちと、
未だ昇華できず
永劫回帰的な
歴史の放物線をたどる世界を
まだ生き続けるかの
ふた通りに分かれて行ったのだと思います。

意識の群れの中にあって
人の営みに貼り付いている人と、
全体性の中に己のアイデンティティを見出した人、
この両者のうちの
人の営みに固執した人にとっては、
歴史の放物線的事象群の羅列は
常に必要であるのだろうと思います。

様々な事象が
次々と解体されてゆこうとしている今、
人の営みに固執するほどに
この世界に不都合なことが増えてゆくのでしょうが、
どの道を選ぶかは
結局、ひとりひとり自らが
選択しなければならない事でもあるのです。