人助けをしようとするな。人助けが要らない世の中を作れ

常日頃思うことであり、
またブログでも何度か書いてきた事なのですが、
兎にも角にも
俗に人が言う人助けというものは
多くの場合、不要な人助けであると
僕は考えています。

もう少し詳しく述べるなら、
直接的な人助けというのは
よほど「今ここで死に瀕している」とか 
それほどの緊急性が無い限り、
さして助ける必要は
およそ無いのだと。

こう言って、
浅慮な理解で
こいつは冷たいやつだと言うのなら
僕もまた、ならばドライな人間と
評価されてもいいです。

けれど、浅はかな人助けは
それでもやはり、人助けにはなっていない。

こういうは話を聞いた事はないでしょうか。

アフリカとかで
飢餓に苦しんで物乞いをする子供たちに
食べ物を与えてはならない、という話。

何故か。

ここで文明人が食べ物を与えてしまうと、
彼らは物乞いをする事で
生活の糧を得る事を覚えてしまうから。

生きる事は「奪うこと」ではない
という観点からも、
物乞いのままの生涯を与えてはならないし、
また文明人の浅慮な「偽善」とまでは言いませんが
あえて名をつけるなら「浅善(せんぜん)」とでも
表現しましょうか。
そういう文明人の「浅善」で飢えた子供に
食べ物を与えてしまうことは、
新たにひとりの物乞いを増やしてしまうことになるのです。

ならば、飢えた子供は
どうやって食べ物を得るのでしょう。
それは
『人に尽くして、その対価で食べ物を得る』
これが答えです。

おそらく、この構造の中にこそ
本当の人助けの理念は息づいているのでしょう。

ブログでも何度か言っていますが、
本来、本当に
『チャリティ』などは不要なのです。

こういう浅慮な人助けはただ単に
『弱者に対して何かを為すことで
強者の自尊心が満たすため』の
いたって傲慢なレクリエーションに過ぎないのです。

「今、こういうことで恵まれない人がいます。
みんなで協力してこの人を救いましょう!」
こういうスローガンはなんに美談にもなりません。

本当に人を救いたいと切に欲するならば、
本当に人を救う力を持っていると自負するのならば、
恵まれない人が現れてしまう、
そういう社会、組織、集団の
構造の不完全さを正そうと試みるべきなのです。

アフリカの飢えた子供に照らすなら、
今目の前で物乞いをする
子供に食べ物を与えるのではなく、
アフリカを
飢えた子供のいない地域にするための
世作りを断固としてするべきなのです。
そうすれば、目の前の飢えた子供だけでなく、
貧困にあえぐ世界を生きる子供たち
全てを救うことができる。

それほどに「人助け」とは崇高なものであり、
俗物にはとうてい真似のできない
行為であることを自覚したほうがいいでしょう。

そして、ここは熟慮したほうがいい。

何もかもが救われ、恵まれた世界において、
それでもなお
救われず、恵まれない人がいるのであれば、
それは、その人の為した事の結果であるか、
あるいは、それを望んでいる人なのです。
助けようとしたところで
本質的な部分では所詮、
人助けも拒絶されてしまう。

救われるはずの世界で
救われない人には
それなりに
救われない理由があるのです。

逆に、こうした人たちを救う事は、
救われない人でいる
その人の自由意思に
介入してしまうことになるのです。

この場合、業が深いのは
間違いなく、助けようとする人なのです。

なぜ、そう言えるのか。
ここをよくよく考えれば、
真のチャリティの本質というものが
見えてくると思うのです。