昨今の自然災害は人災だ

最近は、温暖化だの
大気汚染だのと、
いろいろと環境が悪くなって
楽器作りに使えるような
良質な木が採れなくなっていると
聞いたことがあります。

こうやって
人類にとって本当に大切なものが
ひとつまたひとつと
この世から無くなっていくのでしょう。

ともあれ、
それを哲学的に論ずる以前の話として、
環境悪化による自然災害に関して言えば
明らかに人類の人災であると
もっと、ひとりひとりが
自覚したほうがいいと思うのです。

自分ひとりでは何も変えられないし、
他の人たちもまた
同じように浪費と汚染の生活をしている、
ゆえに自分がするべきことはない、
そう考える心こそが
環境破壊の一端を担っているのだという
意識を持ったほうがいいのだと思います。

昨日の話とも絡むことではありますが、
例えば日本の場合に限ってみると、
国民から巻き上げた税金で
開発の名の下に
山を切り崩し、川の道筋を変え、
それによって生まれた不均衡を
補い取り繕うように
さらなる公的なお金がつぎ込まれ、
また壊れてはつぎ込まれを
繰り返している状況にあって、
結果として現状、
かえって人間が住みにくい環境に
なっているのではないかということ。

国民が働い得たお金の一部を
カンパしたはいいけれど、
それで住み心地の良い国が作られたかといえば、
必ずしもそうとは言えません。

道を作る、家を作ると
剥ぎ落とした森や山が無くなって、
人の住む街なかに
イノシシや鹿、熊までもが
現れるようになったということは、
結局一見、そうした動物のテリトリーを
克服し、支配したように見えて、
実は大きな自然という枠の中では
人間のほうが自然を侵食していたという
この結果、事実というものは
ひとりひとりの税金によって
為されていたという点を
知ったほうが良いと思うのです。

国家というのは
人の集合の中では現実味があるものの、
実は幻想なのです。
たとえ国の長と呼ばれる人が
「日本国である」と言ったところで、
皆が「知らね」と言ってしまえば
日本国は成り立たないのです。

そういうそもそも、
人の既成概念によってのみ成立している
国家というものを、
ましてそれが環境を破壊する
悪しき運営を是としているそれであるとした時、
それでもなお、いち国民として
のうのうと生きることを
恥と思うべきなのではないかとさえ
考えるのです。

国家というか、
政が主導を誤ると
国民はそこに生きる術も糧も、
そして場所さえも無くしてしまう危険があるのです。

ただ、最近の環境破壊による
自然災害というのは、
そういう範疇の話でもないのかもしれません。

もっと大きな、
今まで、特に近代の人類の
価値観そのものが、
今の災いを呼んだというか、
散々贅沢したツケを
今、払わされようとしているように
思えるのです。