愛の法則

何かで聞きかじったか、
読みかじった言葉を
ふと思い出しました。

愛は引き合い
憎悪は離れようとする、
みたいなニュアンスの言葉。

これは誰が言ったのか知りませんが、
うまく言ったものだと思います。

おそらくこれは
単純に、その言葉通り
シンプルに解釈していい事柄だと感じます。

何かに惹かれる時、
人は間違いなくそれを愛しているし、
どうにも受け付けなくて
引き離したいと思えるようなことは、
愛してはいない、
つまり憎悪に相応する感情を抱くものです。

故にきっと、その愛すべき対象が
人であった時などはよくわかると思うのですが、
その愛情が純然たるものであった時というのは
大抵、その愛というものは
それを意識した瞬間から成就しているのだと思います。

いや、そんなことはない。
叶わない恋など数え切れないほどにある。
そういう人もいるでしょう。

僕はこう考えます。

恋が叶わないのは、
愛が実らないのは、
自分が自分の中で
間違った愛し方をしているか、
愛せない理由を
見つけてしまっているからなのだと。

ただ単に、所有したい、支配したい、
そのような恋心は
純粋さにおいて到底、叶わぬ恋です。
恋する相手は
自分の欲望の捌け口ではないのだから。

あるいは、自分にも、相手にも
いちいち愛せない理由を探してばかりでは
惹きあうものも惹きあいません。

そしてさらにこう考えます。

何かときめいた時、
その瞬間、その先にある対象は
間違いなく
自分の写し鏡であると。

取り繕った偽りの自分を写しても
やがて無理がくるでしょう。
おそらく愛してくれる相手もまた
自分を偽って愛すると言っているはず。

あるいは、写し出された
自分の姿のあまりのおぞましさに
目を逸らしてありのままを直視できなかったり、
覆いをかけて自分を偽って写し出そうとしたり。

恋が壊れることの原因のもっとも根底は
おそらく全てにおいて、これしかないのです。

逆に言えば、そこまで純化された愛というのは
断とうとも断ち難い
純粋な絆として
互いをたぐり寄せるでしょう。

ただ、ひとたび曇れば
たちまち切れてしまうのが愛の糸。

切れてしまうのは
ほんの微塵にも「愛せない」という想いが
互いを引き離そうとする力となってしまうから。

愛されても「離れていきたい」と感じる感覚は、
おそらく実は愛されてはいない証拠なのでしょう。
「愛していると言うその人」はきっと
愛の言葉を使って、
単に自分を満たそうとしているだけ。
そういう感触に愛は敏感で、
そこに薄気味悪ささえ感じて逃げ出したくなるはず。

立ち去られた数だけ、
自分の愛は間違っていたと言えるのかもしれません。

何度も立ち去られて、
そして最後に行き着く場所は、
結局、自分を直視してなお
間違いなく自分の愛を信じていられるかというところ。

信じ抜くということは、
生半可な執着では辿り着けない境地であり、
そこにこそ、自身の愛の核があるのだと思うのです。