ラプラスの悪夢を越えて

例えば太陽の周りを回る
地球や他の惑星たちの運行は
計算で正確に求める事ができ、
それを求める公式を使えば
遥か昔から
未来永劫に至るまでの
一切の星の位置がわかるのです。

これは「決定論」を表す一つの例です。

決定論とは、
元は19世紀(だったと思う)の科学者、
ピエール・シモン・ラプラスという人が
提唱した概念で、
(重箱の隅につつくものがたくさんある説明ですが・・・)
この世のあらゆる物事は
全てはじめから決まっているという考え方で、
また「自由意志」と対立する概念でもあります。

このテーゼはその後、様々な尾ひれはひれがついて、
科学はもちろん、倫理や哲学の領域にまで
広がる考え方です。

恐らくやはり、最もマクロな視点で見れば
この世は完璧な秩序に則るように
運行しているのだろうとは思います。

しかし、世界が完璧に定められた通りの
事象を繰り返すだけでは、
世界は完璧足り得ないものでもあるのでしょう。
これは転じて悲観論の弁証へ
導きかねない質のもので、
果たして、この世の森羅万象が
決定論によってすべて
無為に帰してしまう事に
甘んじなければならないのかという
問いを投げかけてきます。

完璧な運行に秩序立てられた世界に
ある種のペシミズムのみしか存在しないのは
同時に完璧さを否定するものでもあります。
完璧な世界に楽観論は不在なのかという一点において。

完璧さは、
稀に偶発的に法則外の事象を起こすことによって、
新しい世界の秩序を生み出すのだとすれば
完璧さはそこに
決定論と自由意志の背反する
二つの概念を包括することができます。

この事は、
決定論的世界観に生きる人間が
愚かであるままに存在するということに
唯一の意味を示唆してくれるものなのかもしれません。

人が、あるいは人の精神が
過つ事によって、
世界、あるいは宇宙が新しく生まれ、
そこに新しい秩序をもった
新しい別のリアリティが生まれるのだとしたら、
それはむしろ
愚かさこそが世界の多様性を生み出す
原動力になっているのかもしれません。

ただこれは例えば、
何が法律の及ばない事件が起きる事によって
それに対する新たな法整備、つまり
秩序が作られる構造と同じで、
愚かさという自由意志による多様性の発現もまた、
決定論世界的な極性へと
収束していくものでもあるのでしょう。

そこに決定論的法則が生きづき、
次の偶発が世界を乱す事を
待っているのかもしれません。

これは、
この世の森羅万象そのものが
その枠に収まり切らなくなったとき、
飛び火するように
新たな秩序のコロニーを作っていくような
そういう宇宙観を示唆できる
質のものなのかもしれません。

人が愚かである事は、
人としての本質なのでしょう。
物理法則の秩序さえも
乱してしまうほどに。

完璧かつ、自由意志を否定された
ペシミズムの世界にあって、
人の愚かさは
一点の妙光のような
オプティミズムに満ちているのだろうと考えれば、
これはこの世の唯一の
希望であるとさえ言えるでしょう。

人そのもの自体が
楽観性をその本質に宿しているのかもしれません。