死へ赴くものを留まらせる正論は無い

自らの死を望み、
また死に行こうとする人を
思いとどまらせるのは無理だと感じます。

まず、この世の中で
今まさに起こっている現実をして、
感情論的レトリックを駆使して
思いとどまらせるのは、
すでに論理以前に、事実として
説得力を欠いたものであるとい現実があります。

夢も希望も
愛も美も、
この世の根底からを拒絶する
意思を持つものにとって、
それこそがリアリティの無い
フィクションに見えるのだから。

この世の中も、そこに住む人たちも、
またそこを生きる人の人生も、
何もかもがもはや現実として
美しいものではなく、
おそらく、ともすれば
死への旅路へ向かおうとする人の言い分の方が
筋が通っていることも過分にして
あるのかもしれません。

つまるところ、
それこそ昭和の時代のように
レトリック、美談で包んだ引留めは
今の時代、もう通用しないのです。

むしろ、死ぬ自由は与えられるべきかという
問題にこの質の論点は
シフトしているとさえ感じます。

蛹から羽化しようとする蝶を
蛹のままの姿に留めようとすることは、
摂理には適わない事であるし、
蝶へと姿を変えようとしているその人を
あらゆる点からも、
それを否定する整然かつ完全とした
理由など、どこにもないのでしょう。

死を殺めることと同義に捉えると
それは大きな業となりますが、
存在そのものの次なるステージへの移行と
それを捉える時、
死はむしろ飛翔の儀礼となり得るのです。

自ら死に行こうとする人に直面して、
人情ではそれを引留めることはできないし、
もっとも寛大な人情という観点においては、
むしろ推奨されるべき論理の方が
辻褄が合うのでしょう。

故に、
どうでも死に行こうとする人を
思いとどまらせると言うのなら、
捕まえて縛り付け、
死なせないよう部屋に入れて見張っている
ひつようがあるのでしょう。

しかし、そうした時の
死を望んだ人の様相は、
もう既にその構図として、
あるいは生の定義として、
その人はもう生きてはいないのでしょう。