愛すること、愛されること

愛するということは
それだけでは成り立ちません。
「愛されること」と
およそ等価であることが望ましい。

まず、はっきりと線引きして
区別しておかなければならないのは、
ここで言う
「愛されること」とは
相手から「愛を得る」あるいは
「愛を奪う」こととは全く違います。

これは我欲です。

ここ言われるというよりは、
本質的な定義として
「愛されること」というのは
「己が相手の愛を受け入れている」状態
であることが本質なのでしょう。

これは受動と能動との
単純な対比的関係であって、
純粋に愛する時、
人のその想いは限りなく純粋に
能動的なものとなります。

対して、
純粋に愛される時、
人からのその想いに対して
限りなく純粋に受動的である
ということ。

愛する時、能動的にそれを表現しなければ
その気持ちが伝わらないように、
愛される時、受動的にそれを受け取らなければ
相手からの気持ちを本当の意味で
慮ることはできないのでしょう。

こう考えると往往にして、
およそ多くの人が
いろいろな面において
愛することや
愛されることについて
どこか間違えたまま
それらを捉えてしまっているのかもしれません。

純粋に能動的に愛を表現できているか、
あるいは
純粋に受動的に愛を受け取れているか、
これを難しくさせているのは
きっと、それまで生きてきた中で
培われた過去の経験でしょう。
もっと深く掘り下げるなら、
それは考え方の癖とか
過去の失敗体験というものから
あるいは傷、トラウマのような
もっと根深いものまで
広範囲に影響を及ぼしているのです。

人は真の愛に対峙すべく決意した時から、
きっと愛し愛されることに対して
自らが縛り付けた呪縛を解く作業を
一つずつしていく必要性を感じるはずです。

自らが呪縛としてすえたその壁が
とてつもなく強大で強固なものに思え、
ひれ伏してしまうこともあるかもしれません。
そこで諦めてしまううちは
まだ「真の」愛に対して責任を
追う準備が自分の中で
整っていないのかもしれません。

けれど、それでもいつかは
呪縛を解いていかなければならない、
そう思えるだけでも
自分の中の「愛の力」は成長しているのだと思います。

そして呪縛を解き始めた人は目指すのです。

純粋に愛することと
純粋に愛されることとが
純粋に等しく行き交う
真の愛の交流の発現するその「場」を。