祈りと愛

愛する人がいるのなら、
その人に対して
何も求めたり、強いたりしてはいけません。

何故ならば、
真の愛とは自由であることの中から
生まれるものであるのだから。

愛したのなら、
ただただその人が幸せであることを
祈るしかないのでしょう。

しかし、ここで祈られる
「幸せ」というものもまた、
愛する人が
「今は理に適っているが故に
幸せではない体験をする自由」
を認めた上での、
結果論としての幸福であるのが
望ましいのだと思います。

もしかしたら愛する人は、
どん底の闇を体験することで
新たな幸福、そして成長を
獲得できるのであれば、
それを退ける権利は
いかような他者であっても
持ち得ないのです。

人が幸せになるということは、
他者から受動的に
「させてくれる」というものではありません。
あくまで、自分から能動的に
幸せになるものであるのだから、
人の幸福を祈るということは
必ずしも一方的に
「幸運を与える」ということではなく、
幸福を願うその相手が
今どのような状況にあろうとも、
最後にはもっとも尊い幸福のうちに
過ごせる現実を生きていることを
祈ることなのです。

『相手は今こうしているときも
幸福に到る道のりを歩んでいる』
そう願うことを言うのだと思います。
もっと正確に踏み込むなら、
『相手はいつなんどきも
最善の選択をしている』
そう祈ることとも言えます。

当然ここには、
祈る人自身の想いというのは
我欲は存在しませんし、
もっとも正しく祈ることとは
自分の自我からの求めと
相手の選択を
あくまで分離させて、
相手の善き選択だけを願うことでしか
為せないことでもあるのです。

こう考えてみると、
愛というものは、
まして愛する人の幸せを願うほどの
想いであるのなら、それは
「相手のあるがままを認め、愛すること」に
通じることであり、
反対側からの視点で見るのなら、
純然と自分の幸せを祈るとき、
そのとき
「自分のあるがままをどこまで認め、愛せるか」
という部分が、自分を幸福にさせる
鍵であることの行き着くでしょう。

願いが叶うのも自分。
叶わなかったとしてもまた自分。
相手が幸せでいることは相手の自由。
今、相手が幸せでなくても、
それもまた相手の自由。
それを自分は干渉しどうこうできる立場にはない。
なのだから自分も
相手を愛し幸せを願うのもまた
自分の自由。
これも何ものから干渉され
抑制されるべきものでもない。

このロジックにどこか
ひっかかる部分というか
腑に落ちない部分があるとき、
そこに人の愛にまつわる
エゴが巣食っているのだと思います。

その巣食うエゴに振り回されているうちは、
おそらく愛だの恋だのは
辛いものに感じるのかもしれません。