目的か手段か

以前、僕がここで触れたことと
重複する話でもあるのですが、
以前のお話しのように、
「何かを人に」与えるということは
何かしらの手段となってはならず、
「純粋に何かを人に与えること」が
目的となるべきだという論理を突き詰めていくと、
やはり音楽というのは
「職業」としては成り立たないのかと
思えてもきます。

しかし、
だからと言って成り立たない社会構造に
うまく順応し没入し、
片手間の
部活やカラオケのような
責任感のなさでやっているような
そういう音楽もまた
自分にとっては縁遠く、
またおよそ絶望的なまでに
次元の違う場所にある音楽を
僕は体現させようとしている。
そう思っています。

音楽というものに
本気で向き合って、
本気でそれを体現しようというのなら、
この今生きているこの
体制からの離脱、解脱は
免れられないと考えるようになっています。

どのみち資本主義社会において
音楽はもう「資本」たり得ないものと
なってしまいましたし、
音楽が売れないのなら
別の労働をするしかないという
無言の抑圧に屈するか、
それでもと言い続けるかの
二択しかないのでしょう。

わかりやすく言うなら、
やはり組織的なビジネスとして
音楽を流通させるということは、
資本のシステムにのって行われるものですし、
そういう構造の中では
誰もが音楽を「手段」としてしか
行使できなくなってしまうとうこと。

別に音楽に限ったことではないのですが、
何につけ人の生き方というものは
「目的」を求めようとすると
ことごとく生きていけない、というか
生かせてくれないものなのでしょう。

それを「手段」として
狡猾に利用する人は富を得て、
純粋に「目的」として明確な
ビジョンを持ち、それを行う人は、
社会的にも人外とされてしまう。

「手段」を生きることは
それほど大切なのか。
「純粋に目的」を行使する人を
「手段」としてそれを扱う人間は
ともすれば食い物にしていないか。

世の中はまったくのアベコベで
世の真理というものは
逆立ちしないと見えてこないものなのだろうかと
考えたりもするのです。

まあこう言と、
普通は負け犬の遠吠えのように
解釈されてしまうのだろうなと思ったりもしますが、
ここにこの世の中の
構造的なおかしさを感じ取れる人が
いてくれることを密かに祈っています。