戦争反対を訴えるその怒声こそが戦争ではないか

戦争反対と怒声を持って訴えることこそが
戦争の種になっていると
自覚したほうがいいでしょう。

戦争を是認する人と
同じステージでそれを否認しいるだけでは
何も問題は解決しない。

はじめにはっきり明言しておきますと、
この世、人類の支配する
この世界から戦争が無くなることは
絶対ありません。
少なくとも、今後軽く100年は。
いや、1000年経って
人類が生き長らえようとも
戦争のない平和な世の中など訪れはしないでしょう。

もちろん、ここで言うところの
戦争というのは、
ミサイルや戦車が出てくるような
戦争だけを指すのではありません。

国境で起こるいざこざも戦争ですし、
国家をあげて仮想の敵国が存在することを
喧伝することもまた戦争です。

そうしたものは何故無くならないのか。

もうこれは、人間ひとりひとりの
心の中に常に戦おう、争おうとする
意識が一欠片でもあるが故、
としか説明できません。

そうした人の心の中の
小さな滲みは、心の奥深くまで侵食し、
人の意識、そして行動の
パターンまでも支配します。

たとえ戦車や戦闘機が出てこなくても、
いや、それどころか
武器や凶器といった物がなかったとしても、
それでも、人は
その人の人間関係世界の中で
人生の中で何度も戦争を経験するのです。
経験しない人などいません。
そもそも、そういう経験を知らないまま
生涯を終えるような人生なら、
この世に生を受けているはずはありません。

人という存在、
そしてそれを軸にした世界というのは、
常に平和、平安の揺らいでいる世界なのですから。

戦争の火種という物は
外的条件によって顕れるものではありません。

己の心の内奥にくすぶっているものが、
外的方向に波及し、
その最たるもののことを
人は戦争と呼びますが、
戦争をしなくても
人は憎みあうし、傷つけ合うし、
殺し合いもする。

そういう「種」が大勢集まって
構築した一つの世界なのだから、
結局、いつなんどきも
心穏やかであり続ける生活など
訪れはしないのです。

つまり、最近では
反戦のデモだとか言って
大勢で集まって戦争を拒否するアピールを
したりしますが、
その拒絶のエネルギーでさえ
そもそもは「争いの種」であることに
誰一人気づいてはいない。

人は争うことから逃れなれない。
争う場に心を置いているのだから悲劇も起こる。

そういう場から脱却させ、
救済してくれる人など
この世界、この宇宙には一切存在しません。

そこから抜け出し、
心を平安のもとに置くことを選択できるのは
自分自信の決定にのみゆだねられているのです。

そのようなことが出来るのなら
人間ではないと思うのなら、
おそらくその人は
永遠に争いのある世界を生きる人なのでしょう。
そしてそれを人と定義するのであれば、
人は、人から脱却しない限り
爆弾や機関銃の存在する世界を
生きるだけなのです。

これは美談でも、道徳や精神論でもなく、
まして霊言であろうことなどありません。
単なる意識と行動の連動性に則れば
自然と導き出される答えなのです。
それも難しいことでさえありません。
見えないのは心が曇っているから、
そう言わざるを得ないのでしょう。