戦い

経済や科学技術などは
競合する相手との
競争の中で進歩していくものです。

しかし、
競争しないと成長できないのか
と問われれば、
必ずしもその限りではないというのが
答えなのかもしれません。

そもそも競争というものの
定義について多くの人は
その根本の思い違いをしていると思います。

競争というものは、
相手を打ち負かすという結果に
帰結するものではないのです。
この点は非常に重要です。

なんのための競争か。
なんのための勝負か。
そのライバルたる
競争相手の存在意義とはなんであるのか。

前述の通り、そのライバルというものは
「打ち負かす相手」ではありません。
彼らは己の知恵や力を相対的に示す
基準であり、目標なのです。

決して基準や目標は駆逐されるべきものではないし、
駆逐しても新たなそれらは
必ずまた現れます。
己の中に「戦い」がある限り。

ジョンレノンは歌いました。
「想像してごらん、戦争のない世の中を」と。
これは半分は正しいですが、
半分は間違っている、というか
真理の半分は隠れて見えていないのでしょう。

本来の意味において、
人は戦っていいし、
それが成長の原動力たるのであれば
戦うべきなのです。
戦って勝ち残ったものが進化できる。
少なくとも地球の生命は
何10億年という永い時間、
そうして進化し、あるいは淘汰され
今ここに人類がいるのです。

ただこの戦いは
「純粋に進化していきたい」という
ポジティブな摂理にも似た本能からものであって、
「征服して搾取し、抹殺したい」という
ネガティブな我欲とは違います。

現代においてのスポーツなどは
ポジティブな成長を促すために
「戦い」が根本の理念として肯定されます。
逆に征服し破壊をする戦争などは
間違いなくネガティブな戦いです。

これが何のための競争、戦いなのか
という問いへの回答でしょう。

そして全員が勝者となってしまっては
物事は進化しないということも
忘れてはいけません。

成長の結果として勝者にもなれば、
力及ばず敗者ともなる、
故に人は切磋琢磨できるのですし、
その鍛錬こそが精神を磨くのだと思うのです。

外側の競争相手、ライバルというものは
あくまで自己目標の指針として
存在しているにすぎません。
打ち負かす相手ではないのです。

真に打ち負かさなければいけない
敵がいるとすれば、
それは月並みですがやはり
己の心なのだと言えるのでしょう。

その敵とは
「成長しなくてもいいや」と思ってしまう
己の中の怠惰なのかもしれません。

故に一切の怠惰を心の中から
排除できるのなら、
人はもう戦わずとも幸せになれるし、
一欠片でも怠惰が心に残っているうちは
そこに拮抗し戦わなければならない
なにかしらが、
外的世界、内的世界に常に
存在するものでもあるのだろうと思います。