善人ステータスを買ってはならない

先日、ネパールで大地震があり
大変なことになっています。

日本でも最近は東日本大震災がありました。

その前にもニュージーランドでも、
またそのさらに前にはスマトラ島(でしたっけ?)
でも地震がありました。

大災害で、こういうことがある度に
各所が募金を募っています。

かく言う自分も、
上記の災害があった時
募金をさせていただきました。

けれど、少し前から思うに
度々ブログでも書いてきたのですが、
不用意なチャリティは
ただの人のエゴの表れなのであり、
わかりやすく言うならば
もしかすると、
そうした無為なチャリティというのは
ただ「自分は善人である、あるいはありたい」
という虚栄心を満たすためにのみの
質のものではないのだろうかということ。
別の言い方に変えて
下衆に言ってしまえば、
「善人ステータス」を
お金で買っているだけなのではないか、
ということ。

これも何度もブログで言っていることではありますが、
誰かが人を救おうとする時、
救われなければならない立場の人が
生まれるのだと思うのです。

もちろん大災害などで家が壊され
住むところもままならない状態の人に
手を差し伸べるのは善意でしょう。

しかし、行ったこともない遠い国で
報道でしか知らされていない災害に遭った人を、
ただお金を出しただけで
それは果たして本当に人を救ったと言えるのだろうか
ということ。

それこそ去年の夏頃に流行った
氷水を冠って善人面していた人たちと
根本部分に同質のメンタリティを
感じてしまうのです。

偽善も善のうち。
それは分かりますし、
その理由もまた、
かつてここのブログで説明もしました。
それは、
「だれもが救われている世界においては
救う使命を負った人間などいない」ということ。

故に人助けをすべき世界を生きるということは、
そこに「助けられる人」という役割を
相対的にになってしまう人がいるということなのです。

だから最近は
チャリティに関して腑に落ちないというか、
釈然としないものを感じてしまうのです。

被災者が生産した悲劇を
傍観者がチャリティという対価で
善人(もどき)のステータスを消費する、
いわば悲劇のコンテンツとして、
遠い国の惨劇を無意識にでも
人は捉えてしまっているのではないかということ。

人助けというものの本質は
果たしてそのような安いものなのでしょうか。
いや、安くていいのでしょうか。

遠い国で被災した人たちに募金はできても、
現実的に自分の生きている生活の中で、
急いでいる人に道を譲れているのでしょうか。
電車で席を譲れているでしょうか。
家の前の道を掃除できているでしょうか。
コンビニの店員さんに
「ありがとう」と言えているでしょうか。

身近で困っている人に
お金を渡して、それだけで
善人とは言えないでしょう。
善意はもっと身近に
無尽蔵に存在しているはずだと思うのです。

大災害が起きる度に
偽りの「善人ポイント」稼ぎのための
募金なら、僕は募金はしないです。
そう考えて、
こういう不幸があった時に募られるチャリティから
僕は身を引きました。

そうは言っても僕の場合、
僕の曲が1曲売れるごとに
1本のワクチンを寄付するという活動をしています。
これは大災害があろうとなかろうと
粛々と行っていきたいと思っていますし、
僕にとってはこれが現状
もっとも自然なチャリティであると
考えるからなのですが、
ただこれで僕が
もっとも最善の善行をなしていると
自惚れる気はもちろんありません。

そういうことではなく、
いずれにしろ、
要するに何が言いたいかというと、
人助けを美徳と心得ることは
全く悪ではありませんが、
結果論としてどう人が助かったのか、
そこまで考えて人助けをしないと、
それは結局、
単に自身の虚栄心を満たして悦に入っているに過ぎず、
これは人を過たすのだろうと思うのです。