今どきセレブ()とか

よくメディアなので
「セレブ御用達」とかいわれるところの
この「セレブ」という言葉、
10年くらい前から出てくるようになったと
記憶していますが、
それこそこの言葉がメディアに出始めの頃というのは、
「上流階級」的な凄い人という
イメージがあったものですが、
今この言葉を聞くと
どこか「浅ましさ」や「下品さ」を感じてしまいます。
そう、実際のセレブという定義とは真逆の
劣等感をくすぐる言葉であり、
これを求める人はおそらく、
その「セレブさ」が最も足りない人なのではないか
とさえ感じてしまいます。

人より500円高いものを食べ、
人より1000円高い美容院へ行って、
人より1万円高い家賃の家に住んで、
人より10万円高い年収で
人より100万円高い車に乗り、
やがて人より1000万円高い家を持つ。

セレブとは
そんな安いものなのでしょうか。

それは大切なことではあるけれど、
それだけで満ちてしまう自尊心ならば
それは非常に安い。
値段に換算したら100円にもならない
メンタリティだなと
僕などは感じてしまいます。

というか事実、経験則として
セレブを自称する人や
そうしたがる人というのは、
スマートさがないというか、
要するに品性を感じないというか。

「あそこのカフェ、セレブ御用達なんだって。
あら、自分もよく行くわ〜」
みたいなことを真顔で言う人は、
思わず吹き出したくなるような破壊力を持った
失笑を禁じ得ません。

「セレブ」の一つ前にあった同義語に
「カリスマ○○」というのがあります。
これも似たようなもので、
むしろ強者というより
弱者の劣等感の裏返しとしての
自己肯定の言葉でしょう。
「セレブ」もこれと同じ。

人間、外側を満たし、肥えさせなくても
「ありのままの自分らしく」あれば
それだけで、自ずと幸せになるものだし、
そうした「幸せな自分」になるために必要なものは
外側より内側にたくさんあって、
それはつまり、
幸せにさせてくれるものというのは
もともと自分の中にいつだって
持っているものなのですが、
そこに気づけないままの人生というのは
人生を半分以上損じていると思えます。

本物のセレブリティというものは
そこから始まるものだし、
そこから始まるセレブリティ体験を
セレブリティと感知できなければ、
結局、外側の唯物的なセレブリティを
追求しなければならなくなるでしょう。

それを追求するのはいいですが、
それを追求する自分の心というものは
満たされることはあるのか?
満たされていなければそれは劣等です。
決してセレブリティではないのです。

そしてまた、
このようなことも
ただの弱者のルサンチマンに過ぎないと
嗤う者には永遠に辿り着けない境地、
それがセレブなのでしょう。