正しい愛し方

愛するということにとって
おそらく最もその障壁となるものは、
愛されたいという欲求なのかもしれません。

何故なら、そういう願いというものは、
対象となる相手の自由を奪うことに繋がるから。

自分が愛する人というのは、
自分が愛しているからと言って
その見返りに愛してもらえるものではないからです。

愛せば愛されるという概念がありますが、
これは半分当たっていますが
同時に半分間違っているのでしょう。

愛されることを求めて愛すのであれば、
それは間違えた半分の方の愛なのです。
これは少し愛の本質からは離れた
心の在り方であるように思えます。

「愛するのだから愛されるべき」
というその想いに、
相手が自分を愛するか、愛さないかの
選択の自由を与えないからです。
それは即ち、相手を縛るものであり、
そして支配という概念を基底にした想いなのです。

愛とは自由なのです。
その愛する人が「良くあること」を祈る想い、
それが愛なのだと思うのです。
真の愛は相手から何かを奪って到達することは
不可能であると思うのです。

愛する人が「より良くあるよう」支えるのが愛であり、
そこに自分も愛されるべきという概念は
不要なのです。

本質的な意味合いでの愛にとって、
愛されることというのは
結果論なのです。
自分が愛する想いに
副次的におまけとして付いてくる
副産物、あるいは影。
主体は常に自分の純粋な愛したい想いなのです。
「愛されたい」気持ちの裏返しとしての
「愛している」ではなく、
ただただ愛し、相手が最も幸せな人生を
自分を介入させることなく祈ることのできる、
その想いこそが本当の愛なのだとおもうのです。

そして、純然とそう振舞える自分であるとき、
愛が形成される条件が整うのだと思います。