我が愛の庭に住まう人

愛することは結局のところ、
その相手の人生、そして存在そのものを
どこまで引き受ける覚悟があるかで
その深さが決まるのかもしれません。

ここで
相手の「すべて」を引き受けるということで
勘違いしていけないことは、
相手の「すべて」を自分のものとして奪う
ということではないとうこと。

結局は、その愛する想いが
エゴか、真の愛かという
判断を迫る問いなのですが、
この違いはすごく些細であり微妙であって、
あるいは深く自分を内観しなければ
その過ちに気付けないのですが、
最終的な判断基準はやはり、
「相手が自分の元から離れていこうとする選択」を
受容できるか、できないかの
差なのだろうと思うのです。

しかし、これが非常に難しいのでしょう。

恋しい想いで繋がろうとするのは良いとしても、
エゴで繋がろうとすると
それは「相手から何かしらの自由」を
奪うことになりかねないし、
手放せるくらいの心境というものは、
得てしてそこに
情が伴わなくなってしまうからです。

愛している。
けれど手放している。

これが愛の姿の本質ではないかと考えます。

真の愛とは広いのです。
おそらく無限の広さを持っているのだと思います。

故に、愛する人がどこへ行こうが
いつであっても
その人は自分の愛に属する人であるのです。

ところが、その愛の世界に
境界線を作ると
途端に相手の自由を損なわせてしまうのです。
この境界線こそがエゴ。

この境界線がなくなれば、
本当はきっと楽だろうに・・・。
人が恋に悩む時というのは
得てしてこの境界線に悩んでいるのかもしれません。

しかし本来、本質としては、
このような境界線というものを設けなくても、
それが本当の愛であれば、
ただそれだけでその人は
自分自身の愛の庭に住まう人なのだろうと思います。