快楽的殺意

まず前提として
人を殺めることと
自分を殺めることは
方向性の違いこそあれど、
その本質は同じ「生命を断絶する」
行為であることに変わりがないということを
規定しておきたいと思います。

そういう観点から見るに、
近代型の殺人であるところの
「人を殺してみたかった」という動機のもとの
殺人というものは、
間違いなくもっとも卑しい振る舞いであると
言っていいのだろうと思うのです。

なんだか世の中、人生が
どうでもよくなって
誰でもいいから人を殺してみたかった。

こういう理由で
通り魔のような犯罪を犯す人というのが
度々現れます。

こういう輩は
人としてもっとも卑しく、愚劣な
精神を持つ下等な人間でしょう。

何故なら、
そうした閉塞した「自分自身の人生」を
まったく完全に
他者のせいにして、
その閉塞感をなすりつけているから。

自身の人生の外的世界と
折り合いがつけられず、
それを自身の責め苦と捉え
自死してしまうのが自殺であるのなら、
その責め苦を自分で受けることができず
他者を殺めることで
相対的に自己否定を完結させてしまうことに
矮小なメンタリティと
稚拙なパーソナリティを感じずにいられません。

故にもっとも愚劣であるのです。

ただ、これはそういった
特殊な精神構造を持つ人のみの思考では
なかったりします。

この何かと不安定な世の中にあって
末法思想というか、終末論とういか、
あるいはリセット願望というか、
こういうものは
たとえ健常な心を持った人であっても
大なり小なり
持っていたりするものです。

自分がうまくいっていないのは
自分のせいではない。
ならば相対的に他者のせいであろう。
自分を痛めて自身を消すのは怖いが
他者を殺めることで相対的に
自身も消えることができるのではないか、
あるいは自分一人が消えるのが怖いから
周りのすべてを道連れに消えよう、
という卑小なる心。

それは言うなれば
「快楽的殺意」とでも言えるのかもしれません。

そうして人を巻き添えにして
自己否定を完結させようとする思想は、
人をしてもっとも低劣な考えなのでしょう。

人の心に、たとえひとかけらでも
そうした想いがあるうちは、
この世から苦は消えることはないのかもしれません。