音楽の本来の姿とは?

ここ最近
「そもそも音楽とはなんなのか?」
というおそらく最も
基底の前提として把握しておかなければいけない
問いについて、
その答えを見出せず壁にぶち当たっています。

特に思うのは今の音楽の姿。

大量生産と費消だけを繰り返す
今の音楽の姿は、
どうも腑に落ちないというか、
これは本質ではないという直感だけが
僕の中で首をもたげている
といえば、僕の葛藤がわかるでしょうか。

僕自身、本来なら
「音楽を買ってもらわなければならない」
立場の人間です。
そんな僕が言うのは矛盾しているし、
買ってもらってなんぼの立場を
真っ向から否定する考えになってしまうのですが、
やはり音楽には
値がつかないのだろうと思うのです。

音楽というものは
物理的なエネルギーを生むものではないのだから。
もっと高いところにある
人の中の崇高な部分に働きかける、
それが音楽の本質であるのではないかと
考えるのですが、
その、より純然たる音楽を
人間の作ったこの
社会構造、産業構造の中で
「生きながらえながら」行使するのは
到底不可能であるということ。

もっとも、これは音楽に限ったことではなく、
文化的なもの。
つまり人の精神に影響を及ぼすもの、
それが精神の本質に近接すればするほど
物理的な「何か」に変換することはできないし、
そもそも物理的な世俗のみの価値観を生きる人には
それが「何であるか」さえ
理解できないのだろうと思うのです。

文芸も音楽も、
思想も哲学も必要とされなくなり、
陳腐で奇妙な偶像だけが
単に快楽を満たすためだけに
かろうじて物理的エネルギーとして変換できる
唯一の精神活動となってしまっている世界。

おそらくこれは間違ってはいないのでしょう。

もともと、ここまで次元を下げないと
精神活動を肉体を生かす活動ができないのです。

けれど、音楽も然り
その他多くの精神活動を伴う
プロダクトというものは、
元々、物理的な何かに置き換えて
使うものではない質のものだったのかもしれません。

音楽一つをとってみても
おそらく、今の人間が構築した
社会構造の中では、
その本来の使い道をさせてくれないのだと思うのです。
というか、本来の与えられた使い道をしたところで、
きっと誰もありがたがらない。

こうやっておそらく人類は、
2000年以上かけて
神を殺し、哲学者を殺し、
思想家を殺し、
今では小説家は虫の息、
音楽家も風前の灯。

まるでここは、
最も重い土砂の溜まった
沼のようだ。

この沼の底で、
音楽の本来のあるべき使い道とは
何かを模索し、
そして行使することができるのだろうか、
それが今の僕の眼前に
聳え立っている壁なのです。

本来の使命を果たす場所は
もうここにはないように思えるのです。