人の価値とステータスは等価でないと声高に云う

そろそろあからさまに
社会的ステータスと
人間性は比例するものではないと
声高に言ってしまっていいと思うのです。

事実、僕自身の実体験からしても
人徳と社会的ステータスは
等価ではありません。

それどころか、
誇らしいほどの社会的なステータスを
持っていても、人格的に劣る人というのは
やはり目についいてしまうものですし、
逆に社会的には
どうしようもないステータスで
評価されるはずであろう人が、
時に愛され、慕われることもあり、
そういう人と出会えばこれもまた
驚きという印象を持つでしょう。

このような状況というものは
僕自身の体験からして、
そんなに稀有なことではないと思えます。

むしろ人生というものの
本当の豊かさというものは、
同種の人間ばかりで集まっているだけでは
得られないのではないかと考えます。

いろいろな世界を生きる人を知り、
認め、そういう人たちから学べる
度量を深くする、
これが人生の醍醐味なのだろうなと思うのです。

ただ、大人になればなるほど、
歳をとればとるほどに
こういう多様性の中で己の精神を
豊かにさせていく機会は少なくなっていきます。

多様の人生が見えなくなってくると
同種の価値観の中でしか
物事が考えられなくなるので、
あらぬ方向にその価値を置いてしまうと、
人間性を社会的ステータスの尺度で
導き出そうとする世界を生きることとなるのです。
しかしここで心に留めておかなければならないことは、
そういう尺度の指針さえ
その人の世界観の中だけで共有されるだけの
指針なのです。

世界でいくらお金のドルが強いからといって、
ドルが使えない国からすればそれは
ただの紙切れであるのと同様です。

人間の価値観なんてそのようなもの。

自分はドルだと言うも良し。
なんちゃらという通貨であるも良し。
それどころか「お金」を名乗る必要さえ
本当はないのでしょう。

貨幣の価値と人間の価値が
必ずしも等価でないことに気づけば
人の自我の作り出すステータスなど、
所詮その程度の小さなものなのだと思うのです。

それでも、人間は値踏みされるべきと
信じる世界を生きる人もいます。
しかしそれはおそらく、
人として自然な振る舞いではないような気がします。

ここが重要なのですが、
おそらく人にとっての価値といいうものは、
『客観的かつ絶対的な尺度など持っていない』
ということ。