働く意味

人が労働をするのは義務であることは
承知しています。

しかし、人が人たりえる本質は
労働にはありません。

生きるため。
楽しむため。
あるいは子を育てるため。

いろいろとありますが、
そうした目的があるからこそ
労働する意味があるのです。
至極当たり前のことなのですが。

ただしかし、
生きることになんの目標、目的も
見出せなかったとしたら、
労働の意味合いが大きく変わります。

なんとなく
食費、電気代や通信費、家賃に費やすだけの
人生であるならば、
そもそも生きる意味がないし、
それゆえにわざわざ
労働する必要もないのではないか、と。

目的意識もなく
ただ単に生活費を稼ぐだけのためにのみ
労働することを是としてしまうことは、
人をして人が家畜になることを
受容するようなものなのではないでしょうか。

今の社会構造だと、
本気で自分に向き合い
自分が何人たるかという部分を意識しながら、
自分からすすんで
自分を生きようとしないと、
会社、あるいは社会と
奴隷契約を結ぶことになりかねないと危惧します。

そうは言っても
世の中そんなに甘くはないし、
そう考える自己規定こそが
実は卑小であり、
そう思い込まされている
偽りの通念なのではないかと思うのです。

奴隷として生涯を全うするという
人生の選択は否定しません。

しかし、隷属であることしか知らないのと、
自主的、自律的に人生を生きられることを
知っているのでは、そこから見える世界観は
およそ大きく違うでしょう。

『会社が使ってくれないなら
自分で会社を作るわ!』

本当はここまでやれれば、
人は真に人を生きられたと言えるのでしょう。
されど、ここまでやって初めて
人が人としての最低限の尊厳を保ちつつ
生きられるのだと思います。

おそらくこれは険しい茨の道でしょう。
隷属として管理されていた方が
間違いなく楽です。

それでも茨の道を選んで進まないと、
精神も叡智も磨かれません。

そしてここが磨かれないままの土壌には
何ひとつさえも育たないのです。