ガンダム論2〜コミニュケーション考


先週のガンダム論の記事の中で、

人同士が分かり合うには
まず仲良くなる事。
という旨のお話をしましたが、
アップした後読み返してみて
書き忘れたというか、
文脈上フォローしきれなかった事が
あったので、
それを記しつつ、
その部分をもう少し掘り下げさせて頂きます。
人同士が分かり合おうとするなら、
まず仲良くならなければならない。
仲良くなれば
自ずとその人の事も分かってくるよ。
これが前回のお話。
けれど実際、
人というのはその関係性の中で
分かり合うまでの
プロセスの順番を
どうも間違えている節があります。
前回も触れたように、
偏見や第一印象で
肌に合わないから嫌い
と決めつけてしまっては
仲良くなれないし、
ましてその人の本質なんて分からない。
本質を知らないのだから
嫌う理由も無い筈なのに。
だからまずはじめに
仲良くなろうとするところから
はじめないといけないのに、
人は、特に大人はその逆、
相手を知ってから仲良くなろうとする。
知り合って
まず疑うところから入って、
その疑念を払拭するだけの物事を
示してくれたものだけと
仲良くする。
けれど、そもそも
疑う事を起点として
仲良くなった者など、
ふとした行き違いで
また疑わしい人に戻ってしまうもの。
そうは言うものの、
はっきりと
「おまえ、信じられないからもう付き合わない」
と、ズバズバ言えるわけも無く、
また、状況として
同じ学校、職場という同じ空間で
過ごさなければいけないが故に
交遊を維持しようとするから、
その人間関係にストレスが生まれ、
やがてそんな関係性で成り立つ
生活基盤そのものが
ストレスになっていくのです。
これ、最近よく言われる
いじめの原点ですよね。
肌に合わない人間と
同じ空間を共有しなければならないから、
その合わない人間に対して
威嚇し、それが争いの元となる。
ターンエーガンダムでも
自分たちと異質の人間に対する
漫然とした憤りが
互いを争わせていきます。
作品上、それは戦争という形で
表現されていますが、
人生、人と生活していれば
時として必ず何かしらの
「こいつ殴ってやろうか」
という場面に遭遇するのは常です。
けれど実際そんなことを
するわけにいかないので(最近はしてしまう人も多いですが)
肌の合わないと思う相手とは
距離を置いて
その人の事を
知ろうとする事すらしなくなる。
と言うか、
知りたくもなくなる。
しかし子供って
知り合う同じ年頃の子供同士、
知る事から関係をはじめませんよね。
まず仲良くなろうとしますよね。
仲良くなってみて
合わなければ
何の後腐れもなく
その子とは遊ばなくなるし、
合えばいつも一緒に遊ぶもの。
仲が良ければ
喧嘩をする事があっても
結局、なんだかんだで
いつも一緒に遊びますよね。
仲良くなる事から始めて
育てた友情は
本当に長く続きます。
これが人との関係の作り方の
正しい方法だと思うのです。
大人になると
それまでの人生経験や
プライドやら、
しがらみやら、
損得やら、
そんなものが邪魔をして
これが出来なくなる。
ターンエーガンダムでは
月の人と地球の人の
友好関係を築くために
舞踏会を開くのですが、
月の人は月の人同士、
地球の人は地球の人同士で
集まり合い、
様子を伺うばかりで
互いの関係を構築する事をしません。
未知のものへの疑念があると
それにはなかなか
近づけないのも心情。
だからこそ、
人とのファーストコンタクトは
丁寧であるべきなのです。
「どなたか私と一曲踊って頂けませんか」
と誰かがはじめに声をかける事も必要。
人との関係の結び方の
最初が出来ていないと、
人付き合いも誤らせてしまったりするし、
また、
新しく出会った人に対しての
最初のプロセスで
掛け違いをしてしまっているから、
大人になってから知り合った人との
付き合いは
すべてがそうだということは
決して無いのですが、
やはり
広いのだけど浅くなる
傾向にあるように思えます。
広く浅い事は
必ずしも良い事とは言えません。
そこまで無理して
友達でいる必要があるの?と
疑問に思ってしまうくらい
薄い友情に縛られてしまっている人
いますよね。
別に友達が沢山いるなら
それはそれで、めでたい事。
けれど
それが人物を推し量る
基準になどならないし、
まして
それが友達の少ない人を
嗤う理由にはなりません。
心の深いレベルで
交流が出来ている友人、一人を持つ人と、
上辺だけで、
もしかするとそれは
自分の仕事の利益になるかもしれない、
そんな理由だけで
とりあえず繋がっている
友達150人(人が友達と認識出来る限界の人数らしい)
を持つ人とでは、
明らかに前者の方が意義が深いです。
もし後者の方にこそ意義を感じるのであれば、
その人はそこまでの人なんです。
だから正直言って、
mixiとかFacebookで
数十人、百人単位で友達作っている人を
見る度に思うのです。
その人たち
本当にあなたにとって必要な人?
と。
ずらっと網羅された友達リストに
並ぶ人たちの中に、
必要の無い人がいるなら、
そんな人がいればいるだけ
それに比例して、
あなたも必要とされてないんですよ。
そう言いたい。
大勢の中の一部に繋がっていたい人は
きっと逆に
孤独な人なのだと思います。
本当は誰もいないから
せめて見かけだけ、
自分にたくさん友達がいるのだと
アピールしたくなる。
自分のディテールを保つのに、
大勢の他者という
投影の中に埋もれていないと
自分を見いだせない人なのです。
友達などというものは、
本当に魂のエネルギーを共有し
交換出来るほどに
深く繋がる事が出来る人、
たった一人いれば充分なのですよ。
良き友人、
良き伴侶、
一人いればそれで充分。
また、それを突き詰めていけば
別に友達がいなくても
特に問題ではなくなってくるでしょう。
現に、
自分を知れば知るほど
その知った自分に
共鳴しない友達は
振るいにかけられるように少なくなり、
本当に魂を共振しあえる友人だけが
最後に残ります。
そこからさらに突き詰めて、
誰が友達なのか、
どんな人が友達なのか、
極限まで突き詰めて、
それを昇華させると
友達という概念に
パラダイムシフトが起こります。
最終的に行き着くところ、
この世、この地球に住み
生きる人すべてが
自分と繋がっている事を
知る事となるのだから。
ここが人間関係という学びのゴールです。
人はやがて
世俗的、物理的な意味に於いての
人間関係の枠組みを超越し
卒業する日が
いつかやってきます。
それは魂が大人になった日。
魂の「成人式」
そして過去や未来の心とも
同等のステージで
疎通が出来るようになってゆく事が
卒業後の究極の目標、指針、
新たなチャレンジであると思い知るでしょう。
それもこれも結局すべて
コミュニケーションに於ける
アプローチなのです。
ガンダムの初期のコンセプトであるところの、
人同士、分かり合えるか
という問いに対する
最終回答がまさにこれだったりします。
故に、
この世で最も孤独な人は
この世で最も友人の多い人でもあるのです。
僕が言うと言い訳がましく聞こえもしますが、
そういうわけで
僕は孤独ではないです。