歌詞という文学

先週、14年前の音源を
ネットにアップしたわけですが、
アップしたmp3のタグに
歌詞を入力していて、
つくづく歌詞が恥ずかしいんですよね・・・。
英語(っぽい何か)は意味不明で
ノートに書かれているそれは
綴りも間違っているし、
そもそも日本語すら
助詞等の使い方がなっていない。
根本的に
作文の基本が出来ていないんですよ。
過去の自分に言ってれば
世話の無い話ですが、
お恥ずかしながら14年前の自分に
「君、頭悪いでしょ?」
と言いたくなる衝動を禁じ得ません・・・。
よく、ラブレターは
一晩寝かせてから送れなどと言われますが、
この状態が正にそれなのですよね。
一時の感情に任せて書きなぐったものは
やはり、あとから読んで
小っ恥ずかしいです・・・。
この当時、あまり
「詞をきちんと書く」という
技術がなかったし
そもそも、そういう
観念というか義務感も
無かったように記憶しています。
歌詞をきちんと書かなくてはと
考えるようになったのは、
やはり僕自身、
この音源を作ったあと
2年ほど引き蘢ってしまい、
そこでありとあらゆる物事を
真正面から向き合って考えた事の
影響が大きいと思います。
今、こうして語っている
「鮎沢郁弥」もしくは
「Lalah Luminoux」として
音楽活動をはじめてからの歌詞と
何が違うのか。
何に差があるのか。
それは先にも述べたように、
一時の自分の感情だけを書きなぐったものと、
一般論的な人としての
普遍的なものを取り上げて
「文学」として昇華させているものの
違いであると僕は考えています。
自分で言うのもあれですが、
まあ全てではないにしろ
Lalah Luminoux以降の僕の歌詞は
明らかに「文学性」を
意識して書かれています。
というか、書かされているというか・・・。
なんだかんだで
僕は曲を届けてくる人の指示通りに
書いているだけなもので。
いわゆるダブルミーニングといって
ひとつの文章で
二通りの意味に解釈出来るような
作詞の技法が使われている曲が
Lalah Luminoux以降の楽曲には
非常に多いです。
二通りどころか
三通り、四通りにも読める詞さえあります。
読み返して
僕自身、他人事のように
歌詞の解釈を新たに発見して
感心する事もしばしばです。
歌詞であると同時に
詩なんですよね。
音楽に乗っている文学なんですよ、
歌詞というものは。
あと、僕の歌詞に
その時代を表すツール、
例えば携帯電話だとかメールだとか、
テレビだとかラジオだとか、
そうしたものは出てきません。
今、この記事を書いていて
僕自身もこの事に初めて気づきました。
きっとこうした
その時代ごとに移ろいでいくものは
やはり時代を越えた普遍性から
真意を遠ざけてしまうし、
僕に歌を届けてくる人もまた
それを避けているように思えます。
というか、
人の心を描こうとすると
逆に、そうした時代の小道具的なものは
描写の妨げになるのではないかと思います。
その時代、世情を映す音楽というのも
それはそれで充分、存在意義はあるのですが、
どうも僕が紡ごうとしている言葉は
多分、もっと人として
普遍的で本質的な部分を映そうと
しているのだと思うのです。