間違った「あるがまま」

Let it be.
「成すがままであれ」とか
「あるがままであれ」とか
そんなニュアンスの言葉でしょうか。
ビートルズの名曲のタイトルでもありますね。
まあ、似たような話は
僕のブログ中で何度も
お話ししてきてはいるのですが、
「成すがままに」にして良い人と
「成すがまま」ではいけない人がいると思うのです。
ただ単純に
「あるがまま」で良いからと言って
何もしないのは、
単なる努力の放棄ですよね。
「人事を尽くして天命を待つ」
という言葉がありますが、
すべき事全てをやりつくしたあとに
はじめて
「Let it be」と言える権利を
得るのではないかと思います。
そもそも、
「あるがまま」の状態は
自己の内的世界の状態であるという、
この問題の起点にある
概念からして
まずボタンの掛け違いがあると思うのです。
本来あるべき
「あるがまま」とは
「心」が
「あるがまま」の状態
という事ではないのです。
自分の外的世界。
つまり、直面している現実に対して
一切の先入観を持たず、
ただ「あるがまま」に是認する事。
それが
「あるがままで良い」事の
真相なのではないでしょうか。
さらに深く洞察するなれば、
現実というのは
あくまで「個」の体験です。
「個」が認識した結果として
そこに現実があるわけで、
それ故に
直面する現実、つまり世界とは
自身の内的世界の
「あるがまま」そのものを
映し出しているものなのです。
外的世界を、
自分の内的世界として
「あるがまま」に捉える事こそ、
真の「あるがままで良い」
なのではないでしょうか。
自分が思う心的世界と
外的世界にギャップがあるのなら、
それを埋める努力をしなければいけない。
ギャップをそのまま
「あるがままで良い」からと
放置してはいけないのです。
この世に生を受けて
ひとつの人生を「体験」している以上、
自己の内的世界と
それを取り巻く外的世界の間に於いて
何かしらの「経験」を生みださなければいけない。
それが人生を生きる事の
大前提です。
だからこそ、それ故に
「あるがままで良い」と
何もしないという選択もあるのでしょうが、
何かをするべき状況にありながら
何もしないという「体験」ばかりしていては、
人生に何の学びももたらしはしないのです。
何もしないのではなく、
何も出来ないという状況もあるでしょう。
それは思いつくあらゆる事を
やりつくした状態なのでしょう。
そんな時にこその
「Le it be」なのではないでしょうか。
そんな時は
何か出来る事が思いつくまで、
ただ待てば良い。
ただ、何かすべき事を思いついたら、
人に迷惑をかけたり、
公序良俗に反するような事以外であれば
やはりそれは実行すべき事ではあると思います。
外的世界に働きかけるという事です。
もちろん経験や体験をするという事は、
物理的な行為だけとは限らないでしょう。
物思う事もまた
経験や体験です。
一番いけないのは、
人生を生きて何も感じず、
何も思わず、
あるがままで良いという
口実を使って
何もせず、何も成さない事。
このような生き方をしてしまうと、
自意識を脆弱化させ、
また堕落させます。
自律的に生きられない人とは
こういう人たちの事なのでしょう。
流れに乗る事と
流される事は
似ているようで大きく違うものなのです。