スピリチュアリズム批判

僕自身、
いつもこうした内容の
ブログを常に書いているので、
ともすれば
勘違いされがちかと思われますが、
実のところ
僕はいわゆる
スピリチュアルだとか、
自己啓発だとか、
ああいったものに対して
懐疑的、いや、
むしろ否定的に捉えています。
スピリチュアルに生きる。
それは良いのです。
そうした生き方をして
自身の精神性が磨かれていくのなら、
大いにそうした生き方をすべきであるし、
また僕も
そうした生き方を心がけてもいます。
しかし、
地に足のついていない
スピリチュアルは百害あって一利無し
であるとさえ思っています。
形而上的な物事、
つまり目に見えないけれど
確かにそこにあるであろう物事。
それは例えば
前世だとか、想いは現実化するだとか、
神だの宇宙人だのとの交信だの、
それらを信じる信じないは
各人の自由意志に
委ねられるべきものであるにせよ、
これを現実逃避、
人生からの逃避の口実にしてしまうのは
非常に危険だし、
あってはならないと思うのです。
本当の意味での
スピリチュアルな生き方、
スピリチュアリズムというものは、
現実の生活を
普通の「人」として生きる
という土壌の中で
育まれるべきものだと思うのです。
早い話が
夢見がちで妄想に埋没するような
現実から乖離した
生き方をしていては
人生があまりにもったいないという事。
神だの精霊だのと接する前に、
今そこにある動かざる現実と
接するべきだし、
神様だのに学びを請わなくとも、
目の前の現実から
受け取るべき学ぶ事は
無限と言っても良いほどに
溢れかえっている。
それが現実なのです。
直面する現実を愛せないから
目に見えない物事に
真理を見いだそうとするのは、
それ正に現実逃避そのもの。
現実を生きなければ。
現実はというものは
生きているだけで、
ただそれだけで
学びがあり、そしてまた
そのままで
そのうち必ずいつかは
真理と出会えるもの。
ただ、
目にした現実を
深い洞察を持って
考察する感性は育てた方が良いでしょう。
直面する現実を
深く洞察する事によって、
結局は自然に
スピリチュアリズムに即した
視野がそこに広がるものなのです。
逆に言えば、そこまで深く
直面する現実を考察出来て初めて
本当のスピリチュアリズムを
語れるのではないかと思うのです。
そこに神も天使もいない。
自分以外のもの
あらゆる全ては、
所詮自分以外のものに過ぎない。
故に
この世には本当に自分しかいない。
ただただひたすらに
「自身という発現」がそこにあるだけなのです。
さらに深く言うなら
本当は自分すらも無く
ひとつの「認知」がそこに
あるだけだったりするのです。