真善美1

真善美という言葉をご存知でしょうか。
まあ、ざっくり言ってしまえば
人が成長するための、より高みに向かうために
設定した目標とでも言うのでしょうか。
文字をそのまま単純に理解するなら要するに
「真実であれ。善であれ。美しくあれ。」
宝塚的な
「清く正しく美しく」にも
通じる目標到達点なのかもしれません。
でも、どうもこの「真善美」という言葉は
各人における人生の理解度や認識度によって
その意味合いはいろいろ変わるようで、
この言葉の表面的な部分だけを見て
「真善美」を理解出来たと言える質のものでは
ないのではないかと思えるのです。
実際、ネットでざっくり検索しても
「真善美」を語る人によって
様々な解釈がなされているようで、
そこにはどうも
「真実であること。
良い事である事。
美しくある事」
というキーワード以外に
明確な共通の
概念や定義が存在しないのです。
「真善美」を説明するための
テンプレートが見当たらないのです。
ある人はそれを
プラトンの唱える「イデア」を
構成する要素だと言い、
また別の人は
「真善美」の三要素を
カントの著書である
「純粋理性批判」、
「実践理性批判」、
「判断力批判」の三つに対応させて
理解していたり、
果ては
「そんな物事を追求していきたいよね」
で済ませてしまっている人もいる。
なのに「真善美」という言葉は
なぜか人が生きる上での指針として
妙な説得力を帯びている、
そこが不思議なのです。
実に志の高い言葉のように見えても
今ひとつ、そのバックボーンが曖昧なんですよね。
僕個人としては
この「真善美」なるものを
「人間存在の真理に至る道であり門である」
そう捉えています。
人の人生、世の中において
追求すべき美徳というものがあると思うのです。
人はその美徳を通して
自分自身と他者、そしてその受け皿となる
総合的な世界との関係性の中に
普遍的な真理を見いだすものである
という事を前提とした時に、
「真」という美徳ないし道、
「善」という美徳ないし道、
「美」という美徳ないし道が存在し、
それぞれの人生において
自身に合った「その道」から
真理へと至るものなのではないかという事。
またそれは最終的に
真、善、美の全てを統合し
完全なる境地に至るもの。
そうして見ると
僕の思う「真善美」観は
プラトンの説く
真実なるものとしての「イデア」に
似ているものなのかも知れません。
では、
具体的に僕の目から見える
「真善美」とは何か?
・・・ちょっと長くなるので続く・・・。