それは神ではない

今の世の中、
解体されなければならないものは
本当にたくさんあります。
数多く、なおかつ
多岐にわたっています。
解体されなければならないものの
ひとつに
宗教が挙げられると思います。
宗教、神は確かに
人にひとときの救済は与えたかもしれません。
しかし同時に、
遠い過去から今に至るまで
人を争わせ、殺し続けた。
「多分善きものであろう」
もしくは
「逆らうと天罰がくだるから」
などという
曖昧かつ理不尽な捉えられ方で
宗教という構造や
神という概念は、
甘やかされ続けて腐敗し、
今や人類にとって
毒であるとさえ
断言しましょう。
人はいい加減、
神という概念から
卒業した方が良いと思うのです。
本来、神の概念を説明し
神のように、
神と同様、同等に振る舞うべき
見本として、
「皆さんもこうして神になりましょう」
というメソッドが確立されたにも拘らず、
いつしかこれが
人をコントロールし隷属化させるための
ツール、方便になってしまった。
これが人類の最大の過ちです。
その昔。
人が皆、個々にそれぞれ
神になられては
商売あがったりだと考えた人が
いたのです。
だから
目の前にぶら下げた餌を
追いかけさせるように、
人類に神を追いかけさせるよう
しむけさせた。
それは誰か。
預言者と呼ばれる人物たちです。
預言者とは
予言者つまり未来を予知する人ではなく、
神の「言葉」を「預かる」人の事です。
彼らはこう語ります。
「神はこう言った。
人よ、こうありなさい、と」
ここで知恵が必要です。
こう言われて、
それを神の言葉と
信じてしまった人たちの中で、
自己と神の概念とが剥離しました。
人の中から神を取り上げ
人の外側に神を引っ張り出し、
そしてそれを追いかけるよう
煽ったのは預言者です。
敢えて言いましょう。
神の言葉を預かったと
謳う預言者こそ、
偽者の預言者であると。
真の預言者は
「神はかく語りき」などと言いません。
ことさら
自分の事、自分にとっての真実を
語るでしょう。
なぜなら
自己と神がそこで合致しているから。
自己がすでに神となっているから。
神は人づてに
想いを託したりはしません。
直接語りかけてくるものです。
故に
自分の真実を語るものに
神は宿るのです。
逆を言えば
真実でないものは神ではない。
今、この文章を読んで
この内容に真実を感じないのであれば、
この文章は
読んでいる人にとっての神は
ここには居ないのでしょう。
だから本当は、
自分に正直であれば
誰でも神になれるし、
もともと
人の本質は神なのかも知れません。
そもそも
神は目指すものではなく、
成るものなのです。
それを自己から引き剥がしてしまっては、
いつまで経っても
人は神の概念の真意を
遂行出来ないのです。
もし仮に自分が神であるなら、
そして人にとって
善き成長を促したいと願うのなら、
自分を絶対に崇めさせないでしょう。
当然、名乗る事すらしません。
名乗ってしまうと
人はその名前を崇めるようになるから。
そして自分の外側の物事を
崇めるのではなく、
自分の心を拠り所に生きていけるよう、
人ぞれぞれに自分で考えさせるでしょう。
正しいか誤りか、
その裁定を神に託すな。
自身の心の計りにかけろ、と。
それが神という概念の真相を知るための
一番の早道だから。
そして人が
神という庇護から巣立って
自らの足を地に付けて立つ
自立し、また自律出来る
神そのものとなれと願うでしょう。
宗教家は人にそうなられるのが
怖いのです。
搾取出来なくなるから。
人類にとって幸いな事に、
偽者の預言者は
大きな失敗をしました。
人の心から
本物の神を奪えなかったのです。
奪えなかったから
適当に神の似姿をでっち上げて
これが神だから
一生かけて追いかけ続けなさい、と
人に信じ込ませた。
これが宗教の構造です。
人はもう
この構造から脱却し、
公序良俗を神に
丸投げして押し付ける事を
止めるべきでしょう。
自らが良心となり、規範となり
神であると言えて始めて、
人は本当の意味で
自律し、自立した
人になれるのではないでしょうか。
だからあえて
その外側の神に唾を吐きかけてみせるのです。
それは神ではない、と。
この虚構の神から
解放されるためにも
この世のあらゆる宗教は
解体されなければならないのです。
人を争いに導くのが宗教なら、
その争いを止める事が出来るのが
人がそれぞれ個々に持っている
真の良心でしょう。
本当はその
真の良心の声に従って
生きられれば、それにこした事はないのです。
人はただ単純に、純粋に
自分を信仰していれば、
それだけで
神の国の門をくぐれるのです。